2023年 新春に思うこと  “死”について

                NPO法人コットンハウス、フレンズ  理事長 土屋秀則

昨年の暮れにコロナに感染しました。ただ、お陰様で大したことはなく、いつもの年のように穏やかな新年を迎え、今は忙しく仕事に追われる毎日です。

コロナに感染し、クリニックで診断を受け、都からの電話とメールのサポートを受けました。私自身は危機感を感じることはなく、また私の周囲の人達からも危機感があるようには感じられませんでした。「社会も治療もウィズコロナになっているのだなあ」と実感しました。すると、昨年からずっと報道されている戦争のことでも、なんだか世の中ではウィズ戦争になっているのかなあ、と思ったりしました。
コロナや戦争であれば、起きていることが幾らかでも日常的に実感出来ます。ところが、ひそかに進行している人間社会の重大な病気である不平等や格差については、中々実感が伴わないこともあり、すでに手当が出来なくなっているのではないかと心配になります。

コロナ感染や戦争による悲しい一人ひとり死を報道で知るにつけ、私はこの新年、私の身の回りで起きる利用者さんの死について考えを巡らすことになりました。コロナや戦争による死と私たち利用者さんの死とでは、もちろん違いはあります。しかし、この平和な日本社会にあってどうしてこのような死があるのだろうかと思うような死もあり、私が身近に関わる死として深く考えざるをえません。
私たち訪問看護ステーション風は設立11年となりました。コットンハウス、フレンズは設立25年となります。この仕事を始めてから、思えば多くの利用者さんが私の前から死ぬことで去って行きました。幸せな死を迎えることが出来た人もいます。しかし、そうでない死を迎えなければならなかった人のほうが多いと思います。
私は、利用者さんの悲しい死を考えるとき、少なからず社会に異議を申し立てたい気持ちになることがあります。
勿論、社会的に役割を持ち経済的に豊かで家族に恵まれた人たちでさえ不幸な死を迎えることはあります。コロナも戦争も不条理に人の命を奪います。ただ、心を病んで死を迎える人は、孤独で誰にも看取られず、そして若くして死を迎える人の比率が多いと思います。それは不幸な死です。私は、ここに社会の不平等と格差が表れていると思います。
私はずっと、死こそ人間にとって最も平等なものだと考えて来ました。死は、人間の営みの中で起きるものであっても、やはり、それを超えて宇宙的な時間の中で起きる絶対的なものとして捉えていました。このように考えるようになったのは、実のところ、体験に拠ってではなく、書物に拠って得られた思想というか感性だと思います。書かれている哲学が、そのまま私の考えになったのです。
どのような死に方であったとしても死は死。そう考えると私自身が、どのような死に方をしても、死の真実はそこにはない。どのような死に方でも意味は同じだ。このように思うことが私の生きる力にもなっていました。
今も根本的に私の考えは変わっていません。しかし、私の考えには、このところ少し変化が起きています。死は平等であっても、生は平等ではない、と強く思うようになったのです。
死は一瞬。その一瞬迄の時間が生ですが、その生については出来れば不幸があってはならないという思いに比重が移ってきているのです。
私は、心を病む人の中に、適正な治療と生活支援を、そして何より「愛」を受けることが出来ないまま死を迎える人が多いことに、悔しい気持ちがいつも湧き起こります。
なぜ、重篤な心の病には適正な治療と生活支援が届かないのでしょうか。
私たちの仕事は、医療であれ福祉であれ、この問題に日々取り組んでいるのですが、なかなか解決には至たらないのが現状です。
不平等と格差の表れのような私達の利用者さんに起きる死について、私は、せめて一人で死を迎えるのではなく、愛ある人に看取られて旅立つことが出来るよう支援をしたいと考えています。死の瞬間までは幸せを生きてほしいと願っています。穏やかな気持ちで、人生には本当は不幸なんてないんだと思えるくらい肯定的で大らかな心を持つようになってほしいと思っています。
考えれば考えるほど、どのような死であっても、またどのような人生であっても、もしかしたら本当はその意味は平等かも知れないと思ってしまいます。どうなのでしょうか?

この先、社会や国がどのような未来に向かっていくのか、心を病む人が社会の中でどのような支援を得て生きていくのか、私たち支援をさせて頂いている者が、どのように仕事をしていけばよいのか、考え続けています。