2025年 新年のご挨拶 『小さな世界』              1月7日 土屋秀則

 昨年のこと、私が担当している利用者さんがこう言ったのです。「土屋さん、ギターでもピアノでもサクソホーンでも何か楽器を買って、それを叩いたら、もうそれで土屋さんは音楽家なんですよ」と。 
 この言葉は、高度な技術というものに対するアンチテーゼとして発せられたものではなく、彼が本当にそう思って私に伝えたのです。
 私にとって利用者さんが言ったことは本当でした。上手くはないですが、今、私は幸せなことに私の小さな世界で音楽家をやっています。

 利用者さんが言ったことは、音楽に関したことだけではなく、生き方や考え方にも通じるものがあると思います。
 人は、それぞれ、何か叩くものを持っていると思います。それは、楽器ということもあると思いますが、鍬だったり、針だったりする場合もあるでしょう。眼だったり手だったりすることもあると思います。口だったり声だったり、お尻だったりする場合もあるかもしれません。そして、仕事だったりすることもないとは言えないのでは、と思います。
 私は、日々星を見るように多くの利用者さんと利用者さんに起きることを見ています。これは、小さな世界でありシンプルな生活です。
 利用者さんのように考えられるのは、利用者さんや私が生きているような小さな世界に限ったことなのでしょうか。
 実は、若い日の私はもっとシンプルでもっと小さな生活を望み、そのように生きていました。そこでの私は、少ししか魚が取れなくても漁師であり、小っちゃな家しか建てられなくても大工であり、虫に葉を食べられてばかりいても農夫でした。夜は満天の星を眺めていました。
 今も昔も私は、小さな世界で生きることは幸せへの近道なんだ、という実感があります。

 ひるがえって世の中を見れば、人も社会もそのような在り方はしていません。お金や優位性や支配力を求めることだけに人が動き回っている姿が見えます。幸福は個人のものとして過剰に求められ、愛も個人のものとして子や家族に過剰に注がれています。競い合いを超えて奪い合いのような情勢です。元来、人とはそういうものなのでしょうか。
 人間が人間となった頃も、もちろんそういった傾向はあったかもしれません。しかし、現代のようではなかったと思います。山際寿一の論文やコンゴの森林奥に住む部族のドキュメンタリーを観てそう思いました。集団外の人間に対しての警戒心はあったかもしれませんが、集団内においては対等性・平等性が現代よりずっと重んじられていたようです。行き過ぎた利己的な競い合いが創り出した現代の格差や抑圧、支配はなかったと推測します。

 生前に、少しお付き合いをさせてもらった詩人がいます。彼の詩に、「人は、火を焚けたらそれでもう人間なのだ」という一節があります。私は、この言葉と、私の利用者さんの言葉が、同じことを言っているように聞こえます。
 障害のある人も、自分には障害はないと思っている人も、人は様々な思想を持ちながら生きています。人が1億いるとして、実際思想は幾つあるでしょう。2つなのか10個なのか、1億なのかは分かりません。ただ私はこれまでの人生で、小さく生きるという思想を持っている人に何人か出会いました。そして昨年、こんなにも身近に、仕事の中で、若い日に私が求めた思想を利用者さんから聞くとは思いませんでした。幸せな事です。
 
 現代社会は大きすぎる世界です。
 私は、小さな世界で生きている人たちの中には、色々な面で行き過ぎてしまった大きな世界に対するクールで且つ温かいメッセージを持っている人が少なからずいると思います。
 それが少しでも伝わっていけばいい、と願わずにはいられません。

 今年もよろしくお願いします。



 初めてスペクトラムという言葉に出会ったのは、自閉症スペクトラム障害という診断名を知った時である。どのくらい前のことになるだろう。その診断名は、様々ある障害を、軽いものから重いものまで幅があるものとして捉えるというものだった。私は、そのとき、他の診断名にはない新しい考え方に出会った。

 そして最近、心の形を考えていた時、ふと、言葉にもスペクトラムの在り方をしているものがあることに気が付いた。
 例えば、スペクトラムという言葉は、スペクトラムとしては存在していない。では、時間を表す現在や過去や未来はどうだろうか。位置を表す、上・下・前・後はどういう性格を持った言葉なのだろうか。数字はスペクトラムを持っていない。楽譜のおたまじゃくしと同じで記号であり、記号はスペクトラムではない。

 それでは、仕事で最もよく使う言葉である“頑張る”はどうだろうか。私は、“頑張る”は、実はスペクトラムの形であるのではないか、と考えた。
 これまで私は、言葉としての“頑張る”は、葉っぱの裏表のように“頑張らない”をセットとして持つだけのものとイメージしていた。しかし、そうではなく、心を考えた時、“頑張る”は、“頑張る―頑張らない”というスペクトラムとしてあるイメージが見えて来た。
 あくまで文学的な表現だが、私は、心の中には生きていくうえで必要な道具が、スペクトラムの形で、“道具箱”に整理されてある、と考える。
 例えば、“頑張る―頑張らない”という道具は、『意志』という道具箱に入っている。『意志』の箱には、他にも例えば、“愛する―憎む”、“協調する―対立する”、“慈しむ―虐げる”等が入っていると思う。ただ、『意志』の中に道具がどのくらいあるかは分からない。
 では、道具箱は、他にどのようなものがあるのだろう。『意識』、『感覚』、『感情』、『欲求』、『精神』・・・と呼ばれるものがあるのではないか。
 大事な事は、生きるための道具はスペクトラムとしてあるということ。他にも、『感情』と呼ばれる箱の中の道具を見てみると、そこには、嬉しいとか楽しいなどという道具が入っている。それらは、“嬉しい―悲しい”、“楽しい―つまらない”、“好き―嫌い”等と、スペクトラムとしてある。
 もう一つ大事な事がある。一つひとつの道具は、他の道具と影響し合って働く、ということである。“頑張る”は、“楽しい―つまらない”とか“好き―嫌い”というような道具と影響し合って働くのだと思う。更に、心の道具は、数値で評価される様々な知的能力や知覚、そして手足や内臓器などの身体機能とも影響し合っている。

 そうであるなら、私は、一つの言葉“頑張る”を使うときも“頑張らない”を聞くときも、限定された意味としてではなく、深い意味を持った言葉として使いまた聞かなければならないだろう。もしものこと、話す方と聞く方が違った景色を見ているかもしれないので。
 対話においては、言葉は一言ではない。言葉は連なって発声される。私が対話するとき、相手のそれまでの人生と私のこれまでの人生の全てが、深い処で出会っていることになる。言葉で話していたとしても、言葉を超えた心の理解がお互いに必要なのだと思う。
 精神科領域においては、対話は、心そのものについて、人間関係について、行為についてなどがテーマとなることが多い。対話は、誤解、断定、失望という結果に陥りやすい。これは、言葉がスペクトラムとしてあること、そして言葉が他の言葉や時間を超えた状況に深く影響されているものであることも原因としてある。
 精神科の対話においては、心を理解し、対話のなかで和声が生れてくることを待つ力が必要だと思う。


                                         2024年1月21日 NPO法人コットンハウス、フレンズ 土屋秀則

 元日、大きな地震が起きました。亡くなられた方たちのことを思うと言葉を失います。また、あれから半月以上経つ今も大変な思いをしている方たちが多くいることにも心が痛みます。そのような中でも、多くの人たちが力を出し合って生き抜こうとしている姿や寒さもいとわず支援に入っている人たちの姿を見ると、逆に心が勇気づけられもします。頑張って欲しいと願わずにはいられません。

 さて、昨年最も明るいニュースとしてTV各局が取り上げていたのは、大谷翔平選手の活躍のことでした。私も昨年は、土曜日の朝など、大谷選手の活躍が見たくてNHK-BSをよく見ました。大谷選手の活躍は、二刀流という稀な才能だけはなく、その純粋な人間性もあって、なにかとても美しいものを見ているような感動がありました。
 その大谷選手のドジャース入団が、昨年12月、1,015億円/10年の契約金で決まりました。その報道も長く続いていました。私はぼんやりと、「これは凄いことなんだ」と思っていました。
 ところが、私どもの利用者さんが、このことについて、「誰のお金が大谷選手に上がっていくのか。考えるとおかしい」と私に言ったのです。利用者さんは、生活保護を受給しながら週5日作業所に通っています。本当に頑張っている方です。
 私は、「そうか」と思いました。そして、何だか自分がオメデタイ人間だと思いました。世の中のことも目も前にいる利用者さんの気持ちも何も分かっていないし、分かろうともしていなかったことに気が付きました。
 これまで、大谷選手の契約金のことで、何かがおかしいというような話は、誰からも、TVからも一度も聞いたことがありません。大谷選手は天才でありかつ誰よりも努力を惜しまなかった。契約金の額の大きさは、その純粋な人間性ゆえ世界中の人から評価されている結果だと思っていました。
 でも、大谷選手の報酬について、もし何もおかしくないというのなら、世界にある格差についても、また、この世界の人が味わう様々な苦しみについても何もおかしくないということになるのではないでしょうか。大谷選手の報酬と世界の苦しみは、どこかで繋がっているのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

 誰もが知っていると思いますが、お金は“下”から“上”に流れています。何かが誰かがそのようなシステムを作り上げたという訳でもなさそうですし、どうしてそのようなことが起きているのでしょうか。
 利用者さんが私たちの支援を受ければ、利用者さんのお金は私たちの元に流れて来ます。そして、私がTVでメジャーリーグを観戦すれば、私のお金はメジャーリーグや大谷選手に流れていくのだと思います。単純なことですが、お金が“下”から“上”に流れることは、誰も止められないのでしょう。
 しかし、どうして止められないのでしょう。地震とは違い、人間社会で起きている様々な苦しみの現象、例えば戦争もそうですが、誰も止められません。単純そうに見えて、問題は複雑なのでしょうか。
 昨年来、私の周りで戦争反対を口にする人はたった2人しかいません。私はもちろん戦争反対ですが、一度もそれを口にしたことはありません。私は、私も含めて、「戦争反対」と口にしない人たちばかりと生きているのです。聞こえるのは、「停戦の合意には幾つもの大きな課題と問題がある」という知識人がTVで話すコメントだけです。
 大谷選手の契約金のことが「おかしい」と言う人もいません。
 私の周りでは無関心と無理解がはびこっているのでしょうか。それとも、共感する心はあっても諦めや何らかの圧力を感じて何も言えないのでしょうか。
 能登で支援している人たちには、「何とかしたい」という気持ちから始まってスコップ一搔きに至るまでの人間の熱くて強靭な心の流れを感じます。
 私たちは、見える悲惨見えない悲惨が溢れている本当に大変な時代を生きることになっているようです。

 障害者支援の仕事は、無関心・無理解とは全く反対にある心を使う行為だと思います。一人ひとりの利用者さんに対して、何故そのように考え、喜び苦しんでいるのかを理解することから始まっていくものと思っています。
 今年私は、人間としてもう一回原点に戻り、利用者さんに対してしっかり理解していくことをやっていこうと心に決めています。そして、力不足ですが、社会についても同様にしっかり理解していこうと考えています。もう一回、そこから始めます。


                NPO法人コットンハウス、フレンズ  理事長 土屋秀則

昨年の暮れにコロナに感染しました。ただ、お陰様で大したことはなく、いつもの年のように穏やかな新年を迎え、今は忙しく仕事に追われる毎日です。

コロナに感染し、クリニックで診断を受け、都からの電話とメールのサポートを受けました。私自身は危機感を感じることはなく、また私の周囲の人達からも危機感があるようには感じられませんでした。「社会も治療もウィズコロナになっているのだなあ」と実感しました。すると、昨年からずっと報道されている戦争のことでも、なんだか世の中ではウィズ戦争になっているのかなあ、と思ったりしました。
コロナや戦争であれば、起きていることが幾らかでも日常的に実感出来ます。ところが、ひそかに進行している人間社会の重大な病気である不平等や格差については、中々実感が伴わないこともあり、すでに手当が出来なくなっているのではないかと心配になります。

コロナ感染や戦争による悲しい一人ひとり死を報道で知るにつけ、私はこの新年、私の身の回りで起きる利用者さんの死について考えを巡らすことになりました。コロナや戦争による死と私たち利用者さんの死とでは、もちろん違いはあります。しかし、この平和な日本社会にあってどうしてこのような死があるのだろうかと思うような死もあり、私が身近に関わる死として深く考えざるをえません。
私たち訪問看護ステーション風は設立11年となりました。コットンハウス、フレンズは設立25年となります。この仕事を始めてから、思えば多くの利用者さんが私の前から死ぬことで去って行きました。幸せな死を迎えることが出来た人もいます。しかし、そうでない死を迎えなければならなかった人のほうが多いと思います。
私は、利用者さんの悲しい死を考えるとき、少なからず社会に異議を申し立てたい気持ちになることがあります。
勿論、社会的に役割を持ち経済的に豊かで家族に恵まれた人たちでさえ不幸な死を迎えることはあります。コロナも戦争も不条理に人の命を奪います。ただ、心を病んで死を迎える人は、孤独で誰にも看取られず、そして若くして死を迎える人の比率が多いと思います。それは不幸な死です。私は、ここに社会の不平等と格差が表れていると思います。
私はずっと、死こそ人間にとって最も平等なものだと考えて来ました。死は、人間の営みの中で起きるものであっても、やはり、それを超えて宇宙的な時間の中で起きる絶対的なものとして捉えていました。このように考えるようになったのは、実のところ、体験に拠ってではなく、書物に拠って得られた思想というか感性だと思います。書かれている哲学が、そのまま私の考えになったのです。
どのような死に方であったとしても死は死。そう考えると私自身が、どのような死に方をしても、死の真実はそこにはない。どのような死に方でも意味は同じだ。このように思うことが私の生きる力にもなっていました。
今も根本的に私の考えは変わっていません。しかし、私の考えには、このところ少し変化が起きています。死は平等であっても、生は平等ではない、と強く思うようになったのです。
死は一瞬。その一瞬迄の時間が生ですが、その生については出来れば不幸があってはならないという思いに比重が移ってきているのです。
私は、心を病む人の中に、適正な治療と生活支援を、そして何より「愛」を受けることが出来ないまま死を迎える人が多いことに、悔しい気持ちがいつも湧き起こります。
なぜ、重篤な心の病には適正な治療と生活支援が届かないのでしょうか。
私たちの仕事は、医療であれ福祉であれ、この問題に日々取り組んでいるのですが、なかなか解決には至たらないのが現状です。
不平等と格差の表れのような私達の利用者さんに起きる死について、私は、せめて一人で死を迎えるのではなく、愛ある人に看取られて旅立つことが出来るよう支援をしたいと考えています。死の瞬間までは幸せを生きてほしいと願っています。穏やかな気持ちで、人生には本当は不幸なんてないんだと思えるくらい肯定的で大らかな心を持つようになってほしいと思っています。
考えれば考えるほど、どのような死であっても、またどのような人生であっても、もしかしたら本当はその意味は平等かも知れないと思ってしまいます。どうなのでしょうか?

この先、社会や国がどのような未来に向かっていくのか、心を病む人が社会の中でどのような支援を得て生きていくのか、私たち支援をさせて頂いている者が、どのように仕事をしていけばよいのか、考え続けています。