病院の問題、地域の問題            2019年11月16日 土屋秀則

 少し前のこと、「身体拘束なき精神科へ」と題したインタビュー記事を朝日新聞(2019年8月22日)で読みました。記事は、都立松沢病院院長の斎藤正彦さんが7年間にわたって取り組んできた病院から身体拘束をなくす取り組みについて書かれたものでした。
 私は、記事から二つの強い衝撃を受けました。一つは非常に嬉しい衝撃、もう一つは自らのこととして深く考えさせられるものでした。

 嬉しい衝撃とは、身体拘束率が7年間で20%弱から3%に減少したという記述から受けたものです。「患者さんを身体拘束してまともな精神医療ができるのか」と2012年院長着任時の挨拶で職員さんに問うたことから始まり、「患者さんに選ばれる病院になろう」という2014年のスローガンのもと、更に身体拘束なき病院にしようと取り組み続け、結果この成果を上げることができたということでした。
 このことは、地域であっても精神科医療に携わるものとして嬉しい限りです。
 何十年も前のこと、私は、松沢病院の職員だったことがあります。その時の私には、まだまだ拘束をなくすことを目標に仕事をすることは出来ませんでした。松沢病院在籍中、私が最終的に仕事の目標にしたのは、職員から患者さんへの暴力をなくすということでした。この仕事でさえ恐ろしく大変なものがありました。ですから、合法的にまた全院的に行われていた拘束をなくすという仕事がどれほど困難を伴うものだったか容易に想像できます。
 斎藤先生はインタビューに答えて、「拘束を『合理的な理由があり法律的な手続きが正しければよい』と言う人もいますが、理由があればいいのかということです。入院をトラウマ体験にせず、退院した患者さんが『何かあったら松沢に行きたい』と言ってくれる医療をやろうと呼びかけました」と話していました。
 現在の精神科病院において、もし拘束がなかったり、当たり前の人間として心温かい丁寧な医療がなされているということであれば、私ども訪問看護では、利用者さんに例えば病状の悪化があった際、胸を張ってまた後ろめたさを感じることなく入院を勧めることも出来ると思います。
 残念なことですが、大抵の利用者さんにはかつての入院で受けたトラウマ体験があります。このため、自身の病状が悪化した際も入院したいとは思わないことが往々にしてあるのです。10代でもしトラウマ体験があったとすると、それ以後20代になっても50代になってもやはり入院は絶対したくないと思うのです。決して極端の例ではありませんが、例え自ら死を選らぼうとしている最中にあっても病院には入院したくないと思う人が多いのです。
 日本の精神科医療における入院治療には、多くの病院で患者さんたちに強いトラウマ体験を与え続けてきたという歴史があると思います。それは過去だけの話ではないかも知れません。現在そして未来の入院治療においては、それをゼロにすることが何より必要なことだと思います。
 もちろん利用者さんが入院を選択しないというのは、すべて病院のトラウマ体験が原因だとは言えないと思います。病識を持つことが出来ない状態にあったり、社会の偏見と括ってもいいかもしれませんが、入院が社会からの排除のシステムとして心に映ってしまうことにも原因はあるかもしれません。
 社会の冷たさ、社会を作っている人間個々の冷たさ、社会が持つ排除のシステムが、入院を選択しないということにつながり、それが構造的悪循環を引き起こし病院の拘束を作っているのかも知れないと思うこともあります。
 現在精神病院の拘束は年間1万人以上ということで、10年前の2倍に増えて行っていると記事にありました。これは、社会や人間個々の在り方を映した傾向だと考えます。何とか、システムとしての拘束を、また拘束を行うことにつながる社会や個人の心の中の排除システムをどうにかして変えてほしいと願うばかりです。

 さて、もう一つ衝撃だった記載がありました。強く胸を刺されたのはむしろこちらのほうかも知れません。
斎藤先生が言うには、「最大の気がかりは地域福祉の劣化です。患者さんを退院させようと思っても地域は抵抗勢力になって助けてくれないことが多い。松沢を退院できない高齢患者さんの行き場がないのです」とのことでした。
 病院側から見れば、地域支援は過去に比べると劣化していると見えているのだそうです。地域はいい加減な仕事しかしていないのではないか、と思われていると思います。斎藤先生の記事では、いったい何が劣化しているのか詳しく書かれていませんでした。私は今、病院から見た地域に対する批判を聞くことができればと切に願うところです。
 それでも地域で仕事をしている私は、精神科地域支援の欠点を挙げることはできます。簡単です。それは、症状や障害が重度の人に対する支援体制があまりにも貧弱だということです。
 現在地域では就労支援が盛んです。就労支援は経営的に上手くいくことが見込まれるのか、支援事業所はどんどん設立されていっています。それはそれでいいことだとは思いますが、就労支援に適合しない重度の障害者への支援体制ははなはだ手薄です。
 このひずみは、斎藤先生が言う「高齢患者の行き場がない」というひずみとは違うことだと思います。しかし、何かどこかで根っこが繋がっている問題のように思いますが、如何でしょうか。地域では、就労支援事業所に行けないような重度の障害を持つ人の行き場がないのです。
 松沢病院が病状が重い人であってもまた病状が悪化して入院した人に対しても拘束はしないという方針を打ち出しているように、地域は地域で、重度の障害を持った人たちに対しての支援体制もしっかり構築維持しなければならないのは当然だと思います。

 精神科病床を減らすという国の政策が遅々として進まないのは、実は地域も原因しているところがあると思います。
そして、病院の問題も地域の問題も根っこは繋がっているように思います。


 最近、何人もの当事者から、「夢は人の役に立つようになることです」という言葉をよく聞くようになりました。実際、仕事や当事者活動で活躍している当事者は多くなりました。そうではなくとも、現在多くの当事者の心には、人の役に立ちたいという気持ちが芽生えているのではないでしょうか。

 さて、すっかり年を取った私は、役に立つということについて自分自身のこととしても考えています。仕事ということでは、もうすぐ人の役に立たなくなります。ですが、「仕事ではなくとも人の役に立つことが出来るかもしれない」と思っていますし、反対に、「人の役に立たないほうがいいかな」とも思っています。
 思うに、人が人の役に立ちたいという願いは、人として認められたいという本能的な願いに裏打ちされているもののようです。ですから、人の役に立っていると実感するとき、人は喜びを得ることができるのだと思います。ある当事者グループの副代表さんは言っていました。「この活動をするようになって、生きているって感じられるようになりました」と。
 私たち人は、人の役に立つかそれとも立たないかという考えの枠の中で生きているようです。そうなると、もし人の役に立っていないとしたら、そのとき人は多かれ少なかれ疎外感を覚えることになってしまうかも知れません。
 現代のように、役に立つということが報酬を得られる仕事をすることと同義であるような社会では、仕事をしないことはすなわち辛いことということになると思います。
 では、仕事をしていなくとも、また自分が人の役に立っていないと思っていたとしても、辛くもなく、疎外感を覚えることもないという状態はありえないのでしょうか。

 私は、人がもし人の役に立っていないとしても、ある特殊の状態において疎外感が強くなるのではないかと考えています。特殊な状態とは、ごく簡単に言うと、「人が役に立っているかどうかという評価基準がはっきりしている社会状況にある場合」です。現代社会は、正にこの状況にあるでしょう。評価基準こそ問題なのかも知れません。
 かつて人間は長い間、小さい集団で助け合ってまた分かち合って生きていたと思います。そのときの労働は今とは違った質にあったと思います。役に立つ立たないという評価がはっきりしていない時代があったと思います。
 現代においても本来の家族であったり、何かしらの人の集まりには、役に立つ立たないではない他の価値基準があって、疎外感が生じないようになっているものがそこかしこにあると思います。
 私は、人間社会が役に立つ立たないで強く評価される社会に変化していったのは、人のエゴイズムとお金の発明ということが原因だったように思っているのですが、どうでしょうか。エゴイズムは貨幣経済と一体となって歩みます。エゴイズムもお金も個の人間や社会にとって必要なものですが、扱いは難しいようです。

 ここで、精神障害者が置かれている問題を考えます。障害者の数ある問題の中でも、社会からの疎外は大きな問題だと思います。人の役に立ちたいと思う当事者が増えていっていると思う反面、社会状況はまだまだ精神障害者の社会参加が難しい状況のままであるような気がします。孤立感、無力感、疎外感は全体として強いままです。
 精神障碍者が、もし仕事をしていなくとも、また自己充足的すぎて人の役に立っていないように見えても、そして症状が重く支援を受けるだけの生活を送らざるを得なかったとしても、疎外感を感じることなく、その人なりの幸せを感じて生きられるかどうかということも考えなくてはならない一つの課題であると思います。
 精神障害者は、それぞれ違った治療段階にあり、それぞれ違った障害を持ち、それぞれ違った考え方をし、また子供さんからおじいさんおばあさんまで様々な人生のステージに立っています。人の役に立ちたいと心から思って苦労を買って出る人がいれば、いつも幻聴に悩まされている人、いつも孤独と不安にさいなまれている人もいます。
 それらすべての精神障害者たちが、差別を受けずに疎外感を持つことなく社会の一員として生きることが出来るかどうかが問題だと思います。
 勿論この問題の解決については、制度や支援の在り方が重要な要素だとは思いますが、社会を構成する一人ひとりの心の在り方というものこそ本当に重要ではないかと思います。残念ながら、今や世の中の流れを見ていると、私にはどう解決していったらいいのか、立ちすくんでしまうほど困難な問題になっていると思ってしまいます。

 ところで私は、役に立たないものにひとしお愛着を持ってしまう人間です。太宰治が挙げたような「片方割れた下駄」、「歩かない馬」、「真理」、「苦労」、「私」等々様々な役に立たないものに理由もなく愛着を感じます。そんな私が是非太宰に、役に立たないものとしてもう一つ「社会」を加えてほしかったと思っています。でも、太宰はそんな野暮なことは言いませんでした。そこがいいところだと思います。

 人はほんの少し役に立てば、文字通り役に立っていると思います。役に立っていなくても実は役に立っていることもあると思います。それらは、人と人との特別な関係性で決められることであり、一般的な評価基準で決められることではないと思います。
 私は、どんな些細なことでも人の役に立つことは尊いと思っています。それは受けるほうも与えるほうも生きていく力になると思います。と同時に、自分は役に立っていないと思っている人にも価値があるとも思っています。
 どうでしょうか?

 中河原前にあるスーパーに自動支払機が置かれたのは昨年のことでした。その後、それまで仕事をしていたレジ係の人が、一人一人といなくなっていきました。毎日そのスーパーで買い物をする私としては淋しいものがあります。役に立つものにも困ったものがあると思います。


私たちNPO法人コットンハウス、フレンズは、これまで22年間、地域で暮らす精神障害者への支援を続けて参りました。この間、事業所は様々な課題に取り組みながら、僅かとはいえ成長をさせていただくことが出来きました。皆様お一人お一人のお力添えあってのことと感謝しております。ありがとうございました。

さて、昨年は、これまで気に掛けていた問題がはっきりした姿で一気に私たちの目の前に現れるようになった年でした。それは、利用者さんの高齢化に伴って生じてくる問題です。昨年、幾つかの支援を通して、私たちは今後どのようにこの問題に対応していったらよいのか深く考えさせられることとなりました。そして、この対応や支援の方法を形作っていくことこそが私たちの今後の大きな成長課題であると捉えるようになりました。
これまで長い期間にわたって支援をさせていただいたことから現れてきた課題は、私たちにとってはすでに逼迫したものになって現れました。
多くの利用者さんが高齢になっていきますが、いつまでもその人らしく健康に幸せに生活していっていただくためにはどのような支援を差し上げていったらいいか、私たちは今それが問われています。
ご存知の通り、精神疾患を持ちながら身体的に健康であり続けることは、多くの場合難しい面がたくさんあると言わざるを得ません。生活習慣病にしても、最近よく言われるようになったフレイルにしても、また高齢になるに伴い変化していく生活能力についても、精神障害者にとっては、予防の段階から問題発生後の適正な対応まで大きな困難が伴うように見えます。
いわば私たちの支援には、一人の利用者さんに対して精神的な問題以外にも、どのようにして医療的、身体的な問題そして低下していく生活能力に対して包括的に行うことが出来るかという新たな課題を与えられているわけです。

ここで、私たち支援者の一人一人に求められるものは、精神科領域の専門性だけではなく、生活に関するあらゆることにおいて複合的な専門性を持たなければならないということだと思います。福祉部門の支援者は医療的知識も、医療・訪問看護の支援者は福祉的知識も持っていなければよい支援はできません。そして、事業所全体としても矢張り複合的な専門性を持った事業所であるべきだと思っています。
福祉的問題、医療的問題のどちらかであるかにかかわらず、また早い訪れ遅い訪れにかかわらず、個々の高齢化に伴って生じてくる多様で専門的知識を必要とするニーズに対して私たちは、支援者としても事業所としても十分に対応できるように進化していかなければならないと思っています。

とはいえ、一人の利用者さんに対して一人の支援者や一つの事業所がすべての面で対応できるわけではありません。様々な専門的支援を行う事業者間でよい連携があれば、個々の利用者さんへの包括支援は地域包括支援になるのだと思います。ただ、どのような支援であっても利用者を包括的にアセスメントできることは必須だと思います。
私は、私たち法人の職員一人一人をできれば複合的な専門性を持った職員とし、そのことにより、様々な事業所とより円滑に効果ある連携支援ができることを目指していきたいと思っています。
国の施策として、地域の精神障害者にも包括的支援を行うことが求められています。
ところが、昨年一年、この包括的という部分でうまくいかなかった支援を私たちはいくつか体験致しました。
これには、もちろん制度の問題が一つあると思います。制度にも溝があり、事業所と事業所の間にも溝があります。
しかし、これに覆いかぶさるようにもう一つの問題があると思います。支援者一人一人が、包括的支援において弱さがあるということです。精神科領域の支援者が、身体的障害や知的の問題に対し、専門性を超えて他の専門家につなぐことには高い難度があるようです。また、福祉は医療の領域のアセスメントに難があります。その逆もあります。幾つかの障害が複合していたら、支援はお手上げの状態になりかねません。
私は、製造業ならまだしも、人を支援する仕事において分業はともすると大きなリスクをはらんでいると思っています。輪島塗のような伝統工芸は、完全な専門性に基づいた分業によって製品の質が高められているそうです。しかし、福祉や医療の分野では、それだけではうまくは行かないことがあるのではないかと思います。
そこで大切なことは、専門家同士がつながろうとする意志です。人と人を、人と事業を、事業と事業をつなぐ役割を支援者の一人一人が担っています。私たちは、今後さらにこの部分でしっかり技術を学んでいこうと考えています。

高齢化の波は、地域精神障害者支援の分野でもすでに始まっていました。そして、昨年世界中で荒れまわった分断の波は、すでに地域福祉の分野でも始まっていたと思います。世界の潮流は、大抵は一人一人の人間が生きている場で起きている波と同じもののようです。もしかしたら一人一人の人間は、とうの昔に自分ファーストになりきっていたのかもしれません。

NPO法人コットンハウス、フレンズは、一人一人の職員が自らの専門性を超えて人間を学び支援の力を高めていきたいと思っています。そして、地域で、専門性を超えて連携していくことをしっかり行っていけるようになろうと考えています。
私たちは、このことを通して今世界や地域の現場で起きている波を乗り越えていこうと考えています。私たちはこの仕事において、障害を持っていてもいなくとも、人が幸せになれるようなあり方に向かって進んでいけるよう、幾らかでも貢献したいと願っています。
本年もよろしくお願いしたいと存じます。


 
                      平成30年12月8日  理事長 土屋秀則

平成最後の年の瀬に考えました。私の脳裏をよぎったものは、共感性についてです。

私たちの仕事の目的はシンプルなものです。一人でも多くの精神障害者が地域で人間らしくその人らしく生きていけるように支援することです。
これは簡単なことのようですが、当事者や私たちの目の前には多くの壁が立ちはだかっていて、中々願うようにはいかないのです。

壁の中で一番大きな壁は国の政策かもしれません。入院を推し進める政策が60年近く前からとられてきています。そのため、入院の必要がなくなっても、多くの方たちが、悲しいことに何十年も退院することなく病院で人生の終わりを待っています。この壁を何とか崩そうとしている運動はたくさんあると思いますが、なかなか効果があがってこないのが現状だと思います。この壁は今も高くて頑丈な壁のままあり続けています。
ほかにも、精神障害者を取り巻く壁は多々あります。
その中で私が特に手ごわいものとして感じる壁は、社会の中から共感性が失われていっていることから出来てしまった壁です。

共感性は、社会や文化の中にも個人の中にもあるものですが、時によって強くなったりまた弱くなったりもします。弱くなったときは利己的な心理が優勢となります。すると必然的に人と人との間、社会と社会の間に防衛のために壁が出来ます。昨今、壁はすっかり高いものになってしまっていると感じます。

人は元々、共感性という感情を備えている生物のようです。おそらく共感性は人の弱さから生じ、結果的に人を強くしていくものだと思います。人は個性を持ち、千差万別の能力と考えを持ちます。そして平和の中で様々な生き方をします。人は個々のものですが、共感性をもって助け合い、個人にとって社会を優しいものに形作るのだと思います。もし人が進化の最終段階に到達したとしても、共感性のない人ばかりになってしまうということはないと思いますが、どうでしょうか。

では人が共感性を失っていくのはどのような理由からでしょうか。この平和な時代にあって、どうして人は共感性を失うのでしょうか。もしかしたら人や社会が豊かになったり力を持つことと共感性が失われることは関係があるかもしれません。人同士助け合わなくとも、例えば経済的に強い人は自らの弱さを経済力で克服できます。そういうことなのでしょうか。
制度の発展も関係しているかもしれません。福祉制度が出来ていくのはいいことですが、往々にして制度は共感性を置き去りにするようです。共感性のない制度は運用システムでカバーするほかないのですが、特に心の問題には応えられないことが多いと思います。

利己的な心理のほうが優勢に働くようになっている現在、自分さえよければいい、人のことなど構っていられないという心理ならまだしも、自分にとって不利益になりそうだと思えば、その対象が死滅しても気にかけない。むしろ、この社会から消え去ってもらいたい、と考えるかもしれません。
社会全体隅々にまで見えない利己的な壁が人と人との間に縦横に出来上がっていると思います。
今も多くの人が退院できないことにはこのような現象と関係があると思いますが、皆さまはいかが考えるでしょうか。

それはともあれ、私が今日お話ししたいことは、共感性に基づいた様々なムーヴメントが社会の中で生まれてきているということです。
例えば、災害ボランティアたちの活動がテレビで放映され凄く感動させられました。
私たちの仕事と関係することでは、発達障害の特性を多くの人に分かってもらおうと、様々な番組が放映されていること。
また、「こども食堂」や「青少年の居場所」の増加も一例に当たると思います。
それから、職場をリタイアした高齢者が、地域で新しい人生と繋がりを持てるような活動をこの府中市でもあちらこちらで生み育てていることにも驚かされます。
私は仕事で、「青少年の居場所」など子供たちを支援している施設に行く機会があります。そこで覚える安心感そして救済の感覚、感動は、そこある人間らしさ、共感性にもとづく愛情が私の胸を打つからなのだと思います。人も社会も捨てたものじゃないと感じます。

コットンハウス、フレンズの事業も、もとはと言えば人への共感性を礎にしていました。現在はどのようになっているでしょう・・・。私たちのスタッフに、今も、「利用者さんの一人一人のことが好きなんです。大切な人たちとでも言ったらいいでしょうか。一人一人にとてもいいところがあって、そこに魅力を感じます。訪問に行くと私自身が元気をもらって帰ってきます」と言う人がいます。実はわたくし自身、全く同じ体験をしているところがあります。物事がうまくいかないとき、「失われた心」を、支援をしながらですがもらって帰ります。共感性に基づいているということは、不思議な関係性をそこに生じさせることもあるものなのです。

社会は、多くの分野で共感性を失ってきました。ところが、この変化する社会の中で今必要になっているものもこの共感性だと思います。
現在の状況の中でも、ポジティブな視点を持って考え、人の心が豊かになっていく活動・仕事を私たちもしていきたいと、年の瀬に考えました。


        コットンハウス、フレンズ理事長 訪問看護ステーション風 所長 土屋秀則

変化というものは突然起こるようでも、実は見えないところで少しずつ起こっているものだと思います。
 社会も人間も知らないうちに静かに変化してきていたようでしたが、昨年は、誰もがド~ンと大きな変化を感じることになった一年だったのではないでしょうか。
 社会や人間の変化に伴って、よく見れば、私達が携わっている地域での精神障害者支援の仕事も様々な変化が進んでいると思います。
 私が昨年最も考えさせられた変化は、人間個人のそれぞれの精神の中で拡大的に進む「個人主義」という事象についてでした。この事象は、私共の日々の仕事に大きく関係してくるものですから、私の悩みの種になってしまっています。
「己の事ばかり考える奴は、己をも滅ぼす奴だ」とは、折よく年末に放映された黒澤明「七人の侍」の中のセリフです。私は、実は、昨年ほど様々な場面でこの言葉が脳裏をよぎった年はありませんでした。映画では、これに先立ち、「他人を守ってこそ自分を守れる」というセリフが放たれます。
 映画は半世紀以上も前に作られましたが、その時代も当然個人主義はあったわけです。しかし、声高に利他主義がプレゼンされ、農民も侍も一緒になって命を懸けて戦うなんて、黒澤の時代には現代の考え方とは違う考え方があったことを思い出させてくれます。
 18世紀後半に起こった産業革命の負の側面として、社会や労働の分断、利己主義の隆盛、格差の拡大等があげられると思いますが、これらは、その後社会的修正が試みられたりもしてきました。しかし、現代社会においては、修正不可能なくらいこの負の側面は拡大し徹底化がなされてきていると感じます。
 現代に生きる人間には、個人主義でしか生きられない状況があるのだと思います。現代人にとって幸せは個人の中にあるプライベートなもの。究極、「他者は存在しない」という命題さえ成り立つくらいの状況です。
 私達が携わる地域での精神障害者支援の仕事は、或る面、障害者の生活に作り出された様々な負の側面について、個々の事例においてまた社会的な問題として修正を行う作業という意味もあると思います。私は、これを行うためには、私達自身が、分断化された専門家職業人ではなくトータルな人間として生きていること、また、個人主義ではなく博愛主義も持ち合わせていなければならないこと、そして、他人の幸せを願い他人の不幸を忌む共感感性を持っていなければならないとも思っています。もし、支援者がこの反対の人間性を持っているとしたらどうでしょう。
 ところが、今や、社会全体を蔽いつつある個人主義は、私達事業者や職員一人ひとりの心にも浸潤している感があります。

 さて、昨今、「精神障害者に対応した地域包括ケアシステム」の構築が提唱されるようになってきています。
 現実的には、この包括ケアは、多くの事業者が関わる連携型のシステムになっていくと思います。この場合当然職種を超えた様々な支援者と連携がなされるわけですが、「7人の侍」のように寝起きを共にしているわけではないのですから、連携することは中々困難を伴うかもしれません。それぞれの事業所で利害関係が生じる場合もありますが、それをどのように調整できるか。連携チームのリーダーの役割は大切ですが、これは経験や立場だけではなくやはり人間性にも関わってくるものだと思います。
 それぞれの事業者の経営においては、個人主義・利己主義を自らのパーソナリティとしなければ生き残れない現実もあるかと思います。当たり前に競争と淘汰が行われています。また事業者の多くは、他の職業団体と同様に人材不足に陥っています。
 このような私達を取り巻く状況をどのように捉えるかが、今私達が直面している大きな問題なのです。そして、私はここに、現在この状況を肯定的に捉えることが出来ていることをお話しておきたいと思います。
 もし地域での精神障害者支援の仕事において、多種多様の小さな事業所が、利害を超えて、また利害を同一のものとして、連携し、一人の利用者に関わることが出来たなら、それは、新しい素晴らしい仕事の在り方になるのではないかと思うからです。
 連携は、事業者における個人主義・利己主義を超えるものです。こういった事業の在り方は、他の業種にはないのではないでしょうか。この地域連携が成功して行けば、現代に生きる人間の個人主義も、もしかしたら変わっていくこともあるのではないかと思います。

 新年、述べましたように、私には2つの課題が課せられていることを自覚しています。1つは、事業所をあげて、しっかり他の事業所と連携し、「精神障害者に対応できる包括的ケア」をよりよいものにしていくよう寄与すること。もう1つは、社会の、また個々の人間の行き過ぎた個人主義と利己主義に対して、それを乗り越えられるような前向きな適応方法を探し出していくことです。
 そのためには、私達が内なる分断を乗り越え、トータルな人間・職業人として生きる、そこから始めたいと考えております。

 今年、皆様方の生活と仕事に笑顔が満ち溢れますように。