「言葉・スペクトラム・対話」                訪問看護ステーション風   土屋秀則

 初めてスペクトラムという言葉に出会ったのは、自閉症スペクトラム障害という診断名を知った時である。どのくらい前のことになるだろう。その診断名は、様々ある障害を、軽いものから重いものまで幅があるものとして捉えるというものだった。私は、そのとき、他の診断名にはない新しい考え方に出会った。

 そして最近、心の形を考えていた時、ふと、言葉にもスペクトラムの在り方をしているものがあることに気が付いた。
 例えば、スペクトラムという言葉は、スペクトラムとしては存在していない。では、時間を表す現在や過去や未来はどうだろうか。位置を表す、上・下・前・後はどういう性格を持った言葉なのだろうか。数字はスペクトラムを持っていない。楽譜のおたまじゃくしと同じで記号であり、記号はスペクトラムではない。

 それでは、仕事で最もよく使う言葉である“頑張る”はどうだろうか。私は、“頑張る”は、実はスペクトラムの形であるのではないか、と考えた。
 これまで私は、言葉としての“頑張る”は、葉っぱの裏表のように“頑張らない”をセットとして持つだけのものとイメージしていた。しかし、そうではなく、心を考えた時、“頑張る”は、“頑張る―頑張らない”というスペクトラムとしてあるイメージが見えて来た。
 あくまで文学的な表現だが、私は、心の中には生きていくうえで必要な道具が、スペクトラムの形で、“道具箱”に整理されてある、と考える。
 例えば、“頑張る―頑張らない”という道具は、『意志』という道具箱に入っている。『意志』の箱には、他にも例えば、“愛する―憎む”、“協調する―対立する”、“慈しむ―虐げる”等が入っていると思う。ただ、『意志』の中に道具がどのくらいあるかは分からない。
 では、道具箱は、他にどのようなものがあるのだろう。『意識』、『感覚』、『感情』、『欲求』、『精神』・・・と呼ばれるものがあるのではないか。
 大事な事は、生きるための道具はスペクトラムとしてあるということ。他にも、『感情』と呼ばれる箱の中の道具を見てみると、そこには、嬉しいとか楽しいなどという道具が入っている。それらは、“嬉しい―悲しい”、“楽しい―つまらない”、“好き―嫌い”等と、スペクトラムとしてある。
 もう一つ大事な事がある。一つひとつの道具は、他の道具と影響し合って働く、ということである。“頑張る”は、“楽しい―つまらない”とか“好き―嫌い”というような道具と影響し合って働くのだと思う。更に、心の道具は、数値で評価される様々な知的能力や知覚、そして手足や内臓器などの身体機能とも影響し合っている。

 そうであるなら、私は、一つの言葉“頑張る”を使うときも“頑張らない”を聞くときも、限定された意味としてではなく、深い意味を持った言葉として使いまた聞かなければならないだろう。もしものこと、話す方と聞く方が違った景色を見ているかもしれないので。
 対話においては、言葉は一言ではない。言葉は連なって発声される。私が対話するとき、相手のそれまでの人生と私のこれまでの人生の全てが、深い処で出会っていることになる。言葉で話していたとしても、言葉を超えた心の理解がお互いに必要なのだと思う。
 精神科領域においては、対話は、心そのものについて、人間関係について、行為についてなどがテーマとなることが多い。対話は、誤解、断定、失望という結果に陥りやすい。これは、言葉がスペクトラムとしてあること、そして言葉が他の言葉や時間を超えた状況に深く影響されているものであることも原因としてある。
 精神科の対話においては、心を理解し、対話のなかで和声が生れてくることを待つ力が必要だと思う。


                                         2024年1月21日 NPO法人コットンハウス、フレンズ 土屋秀則

 元日、大きな地震が起きました。亡くなられた方たちのことを思うと言葉を失います。また、あれから半月以上経つ今も大変な思いをしている方たちが多くいることにも心が痛みます。そのような中でも、多くの人たちが力を出し合って生き抜こうとしている姿や寒さもいとわず支援に入っている人たちの姿を見ると、逆に心が勇気づけられもします。頑張って欲しいと願わずにはいられません。

 さて、昨年最も明るいニュースとしてTV各局が取り上げていたのは、大谷翔平選手の活躍のことでした。私も昨年は、土曜日の朝など、大谷選手の活躍が見たくてNHK-BSをよく見ました。大谷選手の活躍は、二刀流という稀な才能だけはなく、その純粋な人間性もあって、なにかとても美しいものを見ているような感動がありました。
 その大谷選手のドジャース入団が、昨年12月、1,015億円/10年の契約金で決まりました。その報道も長く続いていました。私はぼんやりと、「これは凄いことなんだ」と思っていました。
 ところが、私どもの利用者さんが、このことについて、「誰のお金が大谷選手に上がっていくのか。考えるとおかしい」と私に言ったのです。利用者さんは、生活保護を受給しながら週5日作業所に通っています。本当に頑張っている方です。
 私は、「そうか」と思いました。そして、何だか自分がオメデタイ人間だと思いました。世の中のことも目も前にいる利用者さんの気持ちも何も分かっていないし、分かろうともしていなかったことに気が付きました。
 これまで、大谷選手の契約金のことで、何かがおかしいというような話は、誰からも、TVからも一度も聞いたことがありません。大谷選手は天才でありかつ誰よりも努力を惜しまなかった。契約金の額の大きさは、その純粋な人間性ゆえ世界中の人から評価されている結果だと思っていました。
 でも、大谷選手の報酬について、もし何もおかしくないというのなら、世界にある格差についても、また、この世界の人が味わう様々な苦しみについても何もおかしくないということになるのではないでしょうか。大谷選手の報酬と世界の苦しみは、どこかで繋がっているのではないかと思うのですが、どうでしょうか。

 誰もが知っていると思いますが、お金は“下”から“上”に流れています。何かが誰かがそのようなシステムを作り上げたという訳でもなさそうですし、どうしてそのようなことが起きているのでしょうか。
 利用者さんが私たちの支援を受ければ、利用者さんのお金は私たちの元に流れて来ます。そして、私がTVでメジャーリーグを観戦すれば、私のお金はメジャーリーグや大谷選手に流れていくのだと思います。単純なことですが、お金が“下”から“上”に流れることは、誰も止められないのでしょう。
 しかし、どうして止められないのでしょう。地震とは違い、人間社会で起きている様々な苦しみの現象、例えば戦争もそうですが、誰も止められません。単純そうに見えて、問題は複雑なのでしょうか。
 昨年来、私の周りで戦争反対を口にする人はたった2人しかいません。私はもちろん戦争反対ですが、一度もそれを口にしたことはありません。私は、私も含めて、「戦争反対」と口にしない人たちばかりと生きているのです。聞こえるのは、「停戦の合意には幾つもの大きな課題と問題がある」という知識人がTVで話すコメントだけです。
 大谷選手の契約金のことが「おかしい」と言う人もいません。
 私の周りでは無関心と無理解がはびこっているのでしょうか。それとも、共感する心はあっても諦めや何らかの圧力を感じて何も言えないのでしょうか。
 能登で支援している人たちには、「何とかしたい」という気持ちから始まってスコップ一搔きに至るまでの人間の熱くて強靭な心の流れを感じます。
 私たちは、見える悲惨見えない悲惨が溢れている本当に大変な時代を生きることになっているようです。

 障害者支援の仕事は、無関心・無理解とは全く反対にある心を使う行為だと思います。一人ひとりの利用者さんに対して、何故そのように考え、喜び苦しんでいるのかを理解することから始まっていくものと思っています。
 今年私は、人間としてもう一回原点に戻り、利用者さんに対してしっかり理解していくことをやっていこうと心に決めています。そして、力不足ですが、社会についても同様にしっかり理解していこうと考えています。もう一回、そこから始めます。


                NPO法人コットンハウス、フレンズ  理事長 土屋秀則

昨年の暮れにコロナに感染しました。ただ、お陰様で大したことはなく、いつもの年のように穏やかな新年を迎え、今は忙しく仕事に追われる毎日です。

コロナに感染し、クリニックで診断を受け、都からの電話とメールのサポートを受けました。私自身は危機感を感じることはなく、また私の周囲の人達からも危機感があるようには感じられませんでした。「社会も治療もウィズコロナになっているのだなあ」と実感しました。すると、昨年からずっと報道されている戦争のことでも、なんだか世の中ではウィズ戦争になっているのかなあ、と思ったりしました。
コロナや戦争であれば、起きていることが幾らかでも日常的に実感出来ます。ところが、ひそかに進行している人間社会の重大な病気である不平等や格差については、中々実感が伴わないこともあり、すでに手当が出来なくなっているのではないかと心配になります。

コロナ感染や戦争による悲しい一人ひとり死を報道で知るにつけ、私はこの新年、私の身の回りで起きる利用者さんの死について考えを巡らすことになりました。コロナや戦争による死と私たち利用者さんの死とでは、もちろん違いはあります。しかし、この平和な日本社会にあってどうしてこのような死があるのだろうかと思うような死もあり、私が身近に関わる死として深く考えざるをえません。
私たち訪問看護ステーション風は設立11年となりました。コットンハウス、フレンズは設立25年となります。この仕事を始めてから、思えば多くの利用者さんが私の前から死ぬことで去って行きました。幸せな死を迎えることが出来た人もいます。しかし、そうでない死を迎えなければならなかった人のほうが多いと思います。
私は、利用者さんの悲しい死を考えるとき、少なからず社会に異議を申し立てたい気持ちになることがあります。
勿論、社会的に役割を持ち経済的に豊かで家族に恵まれた人たちでさえ不幸な死を迎えることはあります。コロナも戦争も不条理に人の命を奪います。ただ、心を病んで死を迎える人は、孤独で誰にも看取られず、そして若くして死を迎える人の比率が多いと思います。それは不幸な死です。私は、ここに社会の不平等と格差が表れていると思います。
私はずっと、死こそ人間にとって最も平等なものだと考えて来ました。死は、人間の営みの中で起きるものであっても、やはり、それを超えて宇宙的な時間の中で起きる絶対的なものとして捉えていました。このように考えるようになったのは、実のところ、体験に拠ってではなく、書物に拠って得られた思想というか感性だと思います。書かれている哲学が、そのまま私の考えになったのです。
どのような死に方であったとしても死は死。そう考えると私自身が、どのような死に方をしても、死の真実はそこにはない。どのような死に方でも意味は同じだ。このように思うことが私の生きる力にもなっていました。
今も根本的に私の考えは変わっていません。しかし、私の考えには、このところ少し変化が起きています。死は平等であっても、生は平等ではない、と強く思うようになったのです。
死は一瞬。その一瞬迄の時間が生ですが、その生については出来れば不幸があってはならないという思いに比重が移ってきているのです。
私は、心を病む人の中に、適正な治療と生活支援を、そして何より「愛」を受けることが出来ないまま死を迎える人が多いことに、悔しい気持ちがいつも湧き起こります。
なぜ、重篤な心の病には適正な治療と生活支援が届かないのでしょうか。
私たちの仕事は、医療であれ福祉であれ、この問題に日々取り組んでいるのですが、なかなか解決には至たらないのが現状です。
不平等と格差の表れのような私達の利用者さんに起きる死について、私は、せめて一人で死を迎えるのではなく、愛ある人に看取られて旅立つことが出来るよう支援をしたいと考えています。死の瞬間までは幸せを生きてほしいと願っています。穏やかな気持ちで、人生には本当は不幸なんてないんだと思えるくらい肯定的で大らかな心を持つようになってほしいと思っています。
考えれば考えるほど、どのような死であっても、またどのような人生であっても、もしかしたら本当はその意味は平等かも知れないと思ってしまいます。どうなのでしょうか?

この先、社会や国がどのような未来に向かっていくのか、心を病む人が社会の中でどのような支援を得て生きていくのか、私たち支援をさせて頂いている者が、どのように仕事をしていけばよいのか、考え続けています。


                      訪問看護ステーション風  所長 土屋秀則

 昨年は、コロナ禍の最前線でリスクを負って頑張っている看護師や介護職員・保育士の労働報酬が他の一般の労働に比べると低いという問題が盛んに報道で言われました。
 私も強く実感しています。報酬が低いことで担い手が減り、現場は過重労働となります。私たち訪問看護も例外ではありません。ケアの仕事が所々で崩壊してきています。

 私は昨年、ケアを取り巻く困難の中で、“ケアするということはどういうことか”を考えてきました。その観点は、報酬とは大いに関係していますが、しかし、違った角度からのものでした。
 私たちは、心に病気を持った方たちに対して、症状が良くなるようにまた生活が上手くいくようにケアを差し上げています。私は、そのケアというものが、人間として、また人間社会の中でどのような意味があることなのか、もう一度考えました。

 そのなかで、昨年夏頃に気が付いたことがあります。それは、コロナ禍にあっても、“何か職員が変わってきているな。風のチームが良くなっているな”ということでした。
 私たち職員は、一人ひとりは色々な面で不足している部分や苦手な部分を持っています。その上、コロナ禍によって仕事に荷重が掛かってもいました。しかし、全員が一途に、また助け合って仕事をすることが出来ていました。大変な問題があっても、何とかなるかもしれないという可能性を見出し、利用者さんが少しでも上手くいくようにまた幸せに近づくようにケアを続けてきました。
 普段から多くの困難がある仕事ですが、職員は仕事を続けてくれています。そして、ケアの仕事を通して心が変わってきているように見えます。幾分心が純粋になったというか、私自身、ケアの仕事を通して好きな自分に出会って来ているような気がします。
 私たちの仕事の中に何があるでしょうか。

 私たちのケアの仕事は、“心のケア”です。心を尽くして利用者さんの心に向き合い、利用者さんの話を聞き、そして同じ方向を向いて歩もうとする仕事です。もし、私たちが、入浴介助をしたとしても、理学療法的な仕事をしたとしても、また家事援助的な仕事をしたとしても、その根底には心のケアがあるのです。
 “心のケア”とは、心の関係性を通して行うものです。利用者さんと支援者との関係性の中には利害関係はありません。試行錯誤はあっても、何時か心が同じ方向を向くことが出来たなら、それは良い関係性だと思います。そこに心のケアが成り立ちます。
 この関係性は、家族や会社、地域社会など現代の社会の処どころに残っていると思います。しかし、おそらく医療や福祉、教育の領域に最も残っているものではないでしょうか。
 ケアは、人間が人間となって後ずっと続いてきた関係性です。人間の共感性の成長と社会の維持に絶対必要なものだと思います。
 そこでの関係性は、利用者さんが支援者を必要としていることは勿論ですが、利用者さんが私たちを人間として作り上げているという側面もあると思います。私たちはケアを人生体験として成長します。このことが私たちをケアに引き留めている理由かと思います。
 そして、ケアの仕事の進化は、“社会精神性”の深化に関わっているものと思います。
 風の職員は、このコロナ禍でも成長したと思います。チームもいいチームになったと思います。これは、見えないながら、私たちの一つひとつのケアにおける利用者さんとの心の関係性において作り出されたものだと考えています。

 コロナ第6波が到来したようですが、頑張って私たちは、今年もより良いケアを、利用者さんや関係者さんと共に作り上げていきたいと考えています。
 どうぞよろしくお願い致します。


                          訪問看護ステーション風 土屋秀則

 10月11月とコロナの感染状況は大きく改善し、平穏な日々のありがたさを感じているところです。

 私たち“風”は、運営上少なからずの影響をコロナから受けました。大変でした。しかし、これとは別に私は、コロナに関して一つショックを受けたことがあります。それは、コロナに対する一人ひとりの考え方の違いによって、社会の中でも身近でも様々な摩擦が起きたことです。コロナは、“人は皆それぞれ違う”という現実をあぶり出したように見えました。

 まず私は、国によってコロナへの対応が違うことに驚きました。ロックダウンを実施する国があれば、日本のように行わない国もありました。それだけではなく、他の政策もまたスポーツ観戦や宗教行事等生活の仕方の違いについても驚くことばかりでした。
 国内では、緊急事態宣言の発令をめぐって立場によって主張の違いが見られました。医療関係者は総じて発令を急ぎました。そして解除には慎重な姿勢を示しました。ところが、営業自粛を強いられる飲食店の多くは、要請に従いながらも不満を語っていました。中には自粛をしない選択をする事業者もあり、医療関係者たちとは違った考えが多くあることを示していました。私は、医療関係者ではありますが、飲食店事業者の話も十分理解出来ました。
 また、幾分恐怖を感じたこともありました。自粛警察やマスク警察、挙句の果てにはウレタンマスク警察まで出現したことに対してです。日本だけではなく、同じようなことが外国でも起きていました。
 近々使用できるようになる接種証明アプリは、もちろん感染拡大を防ぎ、ワクチン接種率を上げ、経済活動を活発にすることに効果があると思います。しかし、もしかしたら合法的接種警察という面もあるのではないでしょうか。この発明が、実は恐ろしいものなのかもしれない、と私は考えてしまいます。コロナを機に弱い者や少数者が生きられなくなることに繋がっていかなければいい、と思うのです。

 さて、私たちの訪問看護の業務においても、「人はそれぞれ違っている」ということを見せられることが多々ありました。
 コロナに感染することが不安で訪問看護を終了する利用者も多くいました。反対に、私たちがコロナ感染を心配して訪問看護を休業するのでは、と心配する利用者も多くいました。過剰な心配や全くの無頓着、利用者一人ひとりがこれほどまでに違った考えをするとはこれまでは思っていませんでした。
 身近なことではもう一つ、ワクチン接種をしない選択をする利用者が多かったこと、そしてそのことに対する関係者の考えも様々だったことに驚かされました。
 私たち“風”は、コロナワクチン接種を辞退している利用者に対しても、対応が一対一ということもあり、変わらぬ訪問を続けています。しかし、待合室事情があるからでしょうか、クリニックの中には、ワクチン接種をしなければ診療はしないというところもありました。
 私たちは、ワクチン接種を辞退する利用者にアドバイスはしますが、強く接種を説得することはありません。説得しても、接種を受けない人はいるのです。その選択はやはり人としての権利だと思っています。
 私は、ワクチン接種よりまたマスクを使用してもらうより、現在は利用者と“風”の関係性のほうを大切と思っています。ワクチンを接種しなくともマスクを使ってくれなくとも、一対一ではコロナ感染を防ぐことは可能と考えています。精神科訪問看護からかもしれませんが、利用者との関係性・繋がりの大切さは他の何にも代えがたいと思っています。

 コロナは、私に、人の違いを見せつけました。また、違いと違いが接触した際、ときに、震撼するような状況が引き起こされることも見せてくれました。

 私たち訪問看護は、コロナ下でもそれ以前でも、地位、経済力、能力など利用者の違いを超えて支援を行います。それは、どのような感性・考え・信条を持っている人に対してであれ、人間としての繋がりを大切にして行う仕事です。
 私は、このような訪問看護の在り方に、何かしらの「意味」を感じています。