2025年11月5日                 「対位法的訪問看護-試論-」                 ー訪問看護ステーション風の支援の考え方

                                訪問看護ステーション風
                                       土屋秀則
〈はじめに〉
 「対位法的訪問看護-試論-」は、音楽理論の“対位法”にヒントを得て考え出され名付けられた理論である。
 人間の集団には、所属する人それぞれの考え方が違っていても、調和がとれた良好な人間関係が成り立っている場合がある。その在り方は、対位法音楽によく似ている。
 訪問看護においても対位法的な関わりを持つことで、集団や所属する個人への支援の効果を上げることが出来るはずだと私は考えた。訪問看護が、利用者に対してのみ支援を行なうものではなく、その家族や他の支援者たちと長い時間を共有しコミュニケーションを取りながら関係者全体を支援しているものだからである。
                         ※「対位法」については文末に記した。

A 概論
 この試論は、利用者のみならず、利用者の家族、就労支援事業所のメンバーや職員他、様々な支援者の感性や考え方を最大限尊重し合う関係性を作ることで、個々の関係性が肯定的な関係性に変わり、関係者全体の精神に調和が生まれ、利用者自身の回復にも効果がおよぶことを目指す考え方である。
 “風”の支援は、この「対位法的訪問看護-試論-」(以下「対位法的訪問看護理論」と書く)に基づいて行なっている。
         
1、支援の目標
 対位法的訪問看護理論を用いた支援の目標は、利用者はじめ利用者が所属する家族等の集団内の一人ひとりまた多くの支援者との間にある関係性全体に調和が生まれることである。利用者のみが回復し成長していくということには置いていない。

2、支援の焦点
 対位法的訪問看護理論を用いた支援の焦点は、利用者個人の“精神”ではない。それは、精神科訪問看護においては、利用者の対人関係で生じる問題に関わることが第一義的な仕事となっているからである。
 利用者の自立のためのグループホーム入居を巡り、利用者と両親の考えが合わず、利用者の症状も悪化してしまうという例で考えてみよう。
 このようなとき、利用者の気持ちを分析し正しいと思われる解決策を提示しても、それが役に立つというようなことは余りない。一方で、両親の気持ちを分析し両親に何らかの提案をしてみても矢張り同じである。双方の間に入って何らかの折衷案や約束事を決めても、症状が悪くなるばかりで元も子もなくなる。
 良かれと思う考えを提示してもその通りには行かないものである。私たちは、上記のような関わりを行なって何十年にわたって失敗し続けて来たような気がする。
 訪問看護を行なってすぐのこと私は、利用者個人や家族のような集団のメンバー一人ひとりに関わるよりも、利用者に関係する人たちの対人関係全体の“精神”に関わることの方がよほど大切なことに気が付いた。
 対位法的訪問看護理論の焦点は、利用者が所属する集団また関係者との間に存在する関係性の中にある精神である。

3、対象と場面
 対位法的訪問看護理論は対象と場面を選ばない。どのような対象や場面であっても、対位法的な対人関係を目指すこの理論は私たちの基本的な立ち位置である。
 精神科訪問看護の利用者は、統合失調症や気分障害、発達障害、知的障害、認知症まで様々な症状と障害を持った人たちである。多くの利用者は、疾患が重複し、感性や考え方は千差万別である。また、その家族や支援者も同様である。だからこそ、対位法的訪問看護理論を用いて集団に調和が生じるよう働きかけるのである。
 例えば、入院の必要性が生じた利用者がいるとしよう。
 対位法的訪問看護理論は、入院時の支援としても用いることが出来る。例え強制的入院となったとしても、医師の判断だけではなく、入院の瞬間まで本人の意思も家族や支援者の考えも最大限尊重されなければならない。緊急を要する状況でこそ、対位法的訪問看護理論の考え方は基本的支援指針として大切にする必要がある。そのことで、利用者が人を信頼する力を失うことなく、退院後再び家族や支援者の元に戻っていくことが出来ると考える。

B 方法
1、利用者を変えようとしない
 私たちの支援は、「どう考え、どのようにしたらいいのか」と悩んでいる利用者(ないしは家族)に対して、利用者(ないしは家族)がストレスなく考え、行動できるようになることを目指すことにある。
 ところがこれが簡単ではない。
 利用者の考えや行動は、多くの場合対人関係からの影響を受けている。それゆえ支援は、利用者が所属する集団の対人関係全体について考えることなしには成り立たない。
 このとき支援は、利用者に対してのみではなく、家族に対してもまた属する集団に対しても、その考えを変えようとして関わることはない。本人を含めた関係者全体に生じている関係性に焦点を当てて、関係性が回復し成長することに注意を傾けて行なう。
 症状は改善されないこともあるかもしれない。しかし私は、そうだとしても症状が本人や本人を取り巻く環境と調和出来ていればそれでよいと考える。もし考えが歪んでいようと、少々混乱が見られていてもいい。症状があっても考えが歪んでいても、もし全体として集団が調和に近づいていれば、それは素晴らしい歩みだと考える。
 変えようとせず、変わることを期待する、これが基本である。

2、他の支援との関係
 私たちはこのように一見消極的と思える関わりを行なうが、他の支援者はそのようには関わらないかもしれない。利用者はカウンセリングを受けるかもしれないし、作業所の職員に相談するかもしれない。
 対位法的訪問看護理論は、SSTやCBTのようなセラピーではない。焦点とする処も異なっている。しかし、それらのセラピーと相反するものではない。訪問看護が、セラピーを更に有効なものとする関りを行なうこともあるかも知れない。ただ、セラピーと相反するものであってもいい。異なった立場と考えで関わる、その構成と関係性があってこそ、もし関係性全体に調和が生まれるとしたらそこに深い意味が生じる。
 また、対位法的訪問看護理論は、決して“セラピーはセラピー、訪問看護は訪問看護”という離れた支援方法ではない。そのことは大切なことであると考えている。

C 効果
 対位法的訪問看護理論の考え方を用いて支援を行なったことでの効果を検証することは出来ていない。
 ただ長い時間を掛けてこの考え方を用いて関わった個々の事例をみると、明らかに本人にも家族にも変化が表れ、まるで違う家族のようにお互いを尊重し合うようになり、その関係性が続くという例を見ることは多い。

〈おわりに〉
 この試論は、看護学生が精神科訪問看護の理念と方法を理解する上で、多少なりとも役に立つのではないかと考え書いたものである。
 学生には、精神科訪問看護がどのような考えのもとに行われているのかの見えにくい処があったと思う。また、指導する当方としても、目で見えない処に焦点を当てている支援は教えづらい処があった。
 また、学生が理解しづらい原因として、長い時間の経過の中で行われる精神科訪問看護の極めて短い時間しか学生に体験してもらうことが出来ないという事情もある。そして、そもそも精神科訪問看護を行なうに当たって使用する理論がごく限られていることも影響していると思う。
 この試論が、看護学生や他の支援者の日々の実践において幾らかでも参考になることを願う。
  

※「対位法」は、ウィキペデアに以下のように記述されている。
 「対位法とは、音楽理論のひとつであり、複数の旋律をそれぞれの独立性を保ちつつ互いによく調和させて重ね合わせる技法である。
 対位法と並び、西洋音楽の音楽理論の根幹をなすものとして和声法がある。和声法が主として、楽曲に使われている個々の和音の類別や、複数の和音をいかに経時的に連結するか(和音進行)を問題にするのに対し、対位法は主に複数の旋律をいかに同時的に重ねるかという観点から論じられる。
 J.S.バッハの対位法による作品は、それまでの対位法の集大成といえる音楽である。古典派やそれに続くロマン派の時代では、一つの旋律に和声的な伴奏が付随する音楽が支配的となった」


「厄介な病気を背負い込んだ人間にとって、一番欲しいものは、“普通”ということです」
 これは、病を得た小説家向田邦子が、“父への詫び状”のあとがきに書いている言葉です。

 支援の仕事をしている私は、利用者さんから、「普通になりたい」という言葉をよく聞きます。病気は辛く、仕事には中々就けず、人と心を通わすことも難しい中で、「普通になりたい」とは何とも切実な願いだと思います。
 いつも私は、この言葉を、どこかなにか悲しみと共に聞いています。と同時に、「普通になりたい」と聞くとき、私は、心の深いところで嬉しくも思うのです。たとえ、その人の“普通”がどんなに遠いところにあるものだとしても、願っているということだけで嬉しく思うのです。
  
 私は若い日、「普通なんかになりたくない」と思い、自分が信じる道を歩き出しました。要は、普通ではなかったのです。もしかしたら、傲慢だったのかも知れません。その報いでしょうか、長い間私は厳しい人生を歩むことになりました。あるとき気が付くと、首だけ水面から出して海を必死に泳いでいる自分の姿が見えました。なんとか陸に上がって普通に生きたいと願い、溺れないよう、力尽きないように泳いでいたのです。
 今は年を取り、どのように生きるかということより、与えられた課題にひたすら向き合っていくだけでいいと思うようになっています。
ただ、どうしてでしょう、長く「普通になりたい」と思って生きて来たのに、また、日々起きてくることに懸命に向き合って生きているのに、自分の中に今も、「普通には生きたくない」と思う気持ちがあるのです。

 さて、もう1つ私が利用者さんからよく聞く言葉があります。それは、「死んでしまいたい」という言葉です。「私は役に立たない人間です。生きているのが辛い。いっそ死んでしまった方がましです」と多くの利用者さんは話します。
 最近聞いた言葉は、「アリさんですら一生懸命働いている。私が生きていることに意味はない。たくさんのシャボン玉が上に上に上がっていって、パチンとはじけて消えてしまう。私も、誰の目に留まらないままパチンと消えてしまいたい」というものでした。胸が締め付けられる思いがします。

 「普通になりたい」という言葉と「死んでしまいたい」という言葉は、紙一重の距離にあるように感じます。そして、病気という苦しい境涯の中で発せられた言葉ですが、私は、言葉として発せられた以上、この言葉に生きたいという“意志”を感じます。
 私の仕事は、「普通になりたい」という気持ちに寄り添い、「死んでしまいたい」という気持ちをケアすることにあります。私は、これを、出来ると信じて仕事をしています。ただ正直なところ、“どうしたらいいんだ”と日々悩んでしまっているのが実情です。今も、首だけ水面から出して泳ぎ続け、何とか利用者さんと共に陸に上がろうとしている自分がいます。
 こんな利用者さんもいます。「死にたい気持ちは10のうち9.5です」と話すのです。ここでも私は、その人がどんなに苦しくとも、言葉にして話してくれていることがありがたく嬉しいのです。0.5の生きる気持ちで生きていてくれたら、私は、何とか首を水面に出してふたりで一緒に泳げると思うからです。

 利用者さんの、「普通になりたい」、「死んでしまいたい」という言葉について考えていると、普段から気になっていることが思い出されます。
 若い時期に入院し、そのまま何十年も入院し続けている人たちのことです。その人たちが退院し、私たちの訪問看護を利用してくれるということがほとんどないことも気になります。ほとんどないということは、私たち地域の支援の力がまだまだ足りないことも原因の一つだと思います。しかし元はと言えばこれは、過去に、精神病院に長く入院させておこうとした政策があったことも原因です。入院が長くなった人たちは、自分に地域で生きていく力がなくなっているのでは、と思ってしまいます。入院当初は早く地域に帰りたいと思っていても、何時しか自分は地域には戻れない、戻らない方がいい、と思ってしまうのではないでしょうか。病棟の暖かい看護もあって、退院しなくてもいいと思うこともあるかも知れません。その人たちはもう、「普通になりたい」とは思わなくなっているように思います。
 地域の支援者が精神病院の病棟の中に入って行き、患者さんたちに、退院し地域生活をしていくことを提案する実践において、それを断ってしまう、それに気持ちを向けられない患者さんが多いと聞いています。そうであるなら、その人たちを迎え入れる住居を、国が責任を持って地域に作るくらいの施策があっていいと思います。その上での人的支援ではないでしょうか。
 最近、何年か委員をさせてもらっている都の地域生活移行支援会議において、支援の実態や支援者の努力を聞くにつけそう思います。

 私は、今地域で暮らし、中々良くならない病気を背負い、自分を肯定できる役割が見つからず、人間関係で悩み苦しみ、「消えてしまいたい」と思ってしまう人に対し、それでも生きて、その苦しみと戦っていくことは意味あることと思っています。
 もしかしたら、長い入院生活も大変ですが、地域で生きることも様々な難題があって大変だと思います。しかしどうか、自身の大変さと向き合い、症状を改善させ、人に役立つことを行えるよう、また人と仲良く出来るよう、私たちと一緒に考え、生きていただきたいと願わずにはいられません。


 昨年のこと、私が担当している利用者さんがこう言ったのです。「土屋さん、ギターでもピアノでもサクソホーンでも何か楽器を買って、それを叩いたら、もうそれで土屋さんは音楽家なんですよ」と。 
 この言葉は、高度な技術というものに対するアンチテーゼとして発せられたものではなく、彼が本当にそう思って私に伝えたのです。
 私にとって利用者さんが言ったことは本当でした。上手くはないですが、今、私は幸せなことに私の小さな世界で音楽家をやっています。

 利用者さんが言ったことは、音楽に関したことだけではなく、生き方や考え方にも通じるものがあると思います。
 人は、それぞれ、何か叩くものを持っていると思います。それは、楽器ということもあると思いますが、鍬だったり、針だったりする場合もあるでしょう。眼だったり手だったりすることもあると思います。口だったり声だったり、お尻だったりする場合もあるかもしれません。そして、仕事だったりすることもないとは言えないのでは、と思います。
 私は、日々星を見るように多くの利用者さんと利用者さんに起きることを見ています。これは、小さな世界でありシンプルな生活です。
 利用者さんのように考えられるのは、利用者さんや私が生きているような小さな世界に限ったことなのでしょうか。
 実は、若い日の私はもっとシンプルでもっと小さな生活を望み、そのように生きていました。そこでの私は、少ししか魚が取れなくても漁師であり、小っちゃな家しか建てられなくても大工であり、虫に葉を食べられてばかりいても農夫でした。夜は満天の星を眺めていました。
 今も昔も私は、小さな世界で生きることは幸せへの近道なんだ、という実感があります。

 ひるがえって世の中を見れば、人も社会もそのような在り方はしていません。お金や優位性や支配力を求めることだけに人が動き回っている姿が見えます。幸福は個人のものとして過剰に求められ、愛も個人のものとして子や家族に過剰に注がれています。競い合いを超えて奪い合いのような情勢です。元来、人とはそういうものなのでしょうか。
 人間が人間となった頃も、もちろんそういった傾向はあったかもしれません。しかし、現代のようではなかったと思います。山際寿一の論文やコンゴの森林奥に住む部族のドキュメンタリーを観てそう思いました。集団外の人間に対しての警戒心はあったかもしれませんが、集団内においては対等性・平等性が現代よりずっと重んじられていたようです。行き過ぎた利己的な競い合いが創り出した現代の格差や抑圧、支配はなかったと推測します。

 生前に、少しお付き合いをさせてもらった詩人がいます。彼の詩に、「人は、火を焚けたらそれでもう人間なのだ」という一節があります。私は、この言葉と、私の利用者さんの言葉が、同じことを言っているように聞こえます。
 障害のある人も、自分には障害はないと思っている人も、人は様々な思想を持ちながら生きています。人が1億いるとして、実際思想は幾つあるでしょう。2つなのか10個なのか、1億なのかは分かりません。ただ私はこれまでの人生で、小さく生きるという思想を持っている人に何人か出会いました。そして昨年、こんなにも身近に、仕事の中で、若い日に私が求めた思想を利用者さんから聞くとは思いませんでした。幸せな事です。
 
 現代社会は大きすぎる世界です。
 私は、小さな世界で生きている人たちの中には、色々な面で行き過ぎてしまった大きな世界に対するクールで且つ温かいメッセージを持っている人が少なからずいると思います。
 それが少しでも伝わっていけばいい、と願わずにはいられません。

 今年もよろしくお願いします。



 初めてスペクトラムという言葉に出会ったのは、自閉症スペクトラム障害という診断名を知った時である。どのくらい前のことになるだろう。その診断名は、様々ある障害を、軽いものから重いものまで幅があるものとして捉えるというものだった。私は、そのとき、他の診断名にはない新しい考え方に出会った。

 そして最近、心の形を考えていた時、ふと、言葉にもスペクトラムの在り方をしているものがあることに気が付いた。
 例えば、スペクトラムという言葉は、スペクトラムとしては存在していない。では、時間を表す現在や過去や未来はどうだろうか。位置を表す、上・下・前・後はどういう性格を持った言葉なのだろうか。数字はスペクトラムを持っていない。楽譜のおたまじゃくしと同じで記号であり、記号はスペクトラムではない。

 それでは、仕事で最もよく使う言葉である“頑張る”はどうだろうか。私は、“頑張る”は、実はスペクトラムの形であるのではないか、と考えた。
 これまで私は、言葉としての“頑張る”は、葉っぱの裏表のように“頑張らない”をセットとして持つだけのものとイメージしていた。しかし、そうではなく、心を考えた時、“頑張る”は、“頑張る―頑張らない”というスペクトラムとしてあるイメージが見えて来た。
 あくまで文学的な表現だが、私は、心の中には生きていくうえで必要な道具が、スペクトラムの形で、“道具箱”に整理されてある、と考える。
 例えば、“頑張る―頑張らない”という道具は、『意志』という道具箱に入っている。『意志』の箱には、他にも例えば、“愛する―憎む”、“協調する―対立する”、“慈しむ―虐げる”等が入っていると思う。ただ、『意志』の中に道具がどのくらいあるかは分からない。
 では、道具箱は、他にどのようなものがあるのだろう。『意識』、『感覚』、『感情』、『欲求』、『精神』・・・と呼ばれるものがあるのではないか。
 大事な事は、生きるための道具はスペクトラムとしてあるということ。他にも、『感情』と呼ばれる箱の中の道具を見てみると、そこには、嬉しいとか楽しいなどという道具が入っている。それらは、“嬉しい―悲しい”、“楽しい―つまらない”、“好き―嫌い”等と、スペクトラムとしてある。
 もう一つ大事な事がある。一つひとつの道具は、他の道具と影響し合って働く、ということである。“頑張る”は、“楽しい―つまらない”とか“好き―嫌い”というような道具と影響し合って働くのだと思う。更に、心の道具は、数値で評価される様々な知的能力や知覚、そして手足や内臓器などの身体機能とも影響し合っている。

 そうであるなら、私は、一つの言葉“頑張る”を使うときも“頑張らない”を聞くときも、限定された意味としてではなく、深い意味を持った言葉として使いまた聞かなければならないだろう。もしものこと、話す方と聞く方が違った景色を見ているかもしれないので。
 対話においては、言葉は一言ではない。言葉は連なって発声される。私が対話するとき、相手のそれまでの人生と私のこれまでの人生の全てが、深い処で出会っていることになる。言葉で話していたとしても、言葉を超えた心の理解がお互いに必要なのだと思う。
 精神科領域においては、対話は、心そのものについて、人間関係について、行為についてなどがテーマとなることが多い。対話は、誤解、断定、失望という結果に陥りやすい。これは、言葉がスペクトラムとしてあること、そして言葉が他の言葉や時間を超えた状況に深く影響されているものであることも原因としてある。
 精神科の対話においては、心を理解し、対話のなかで和声が生れてくることを待つ力が必要だと思う。