役に立つということ         2019年6月23日 土屋秀則

 最近、何人もの当事者から、「夢は人の役に立つようになることです」という言葉をよく聞くようになりました。実際、仕事や当事者活動で活躍している当事者は多くなりました。そうではなくとも、現在多くの当事者の心には、人の役に立ちたいという気持ちが芽生えているのではないでしょうか。

 さて、すっかり年を取った私は、役に立つということについて自分自身のこととしても考えています。仕事ということでは、もうすぐ人の役に立たなくなります。ですが、「仕事ではなくとも人の役に立つことが出来るかもしれない」と思っていますし、反対に、「人の役に立たないほうがいいかな」とも思っています。
 思うに、人が人の役に立ちたいという願いは、人として認められたいという本能的な願いに裏打ちされているもののようです。ですから、人の役に立っていると実感するとき、人は喜びを得ることができるのだと思います。ある当事者グループの副代表さんは言っていました。「この活動をするようになって、生きているって感じられるようになりました」と。
 私たち人は、人の役に立つかそれとも立たないかという考えの枠の中で生きているようです。そうなると、もし人の役に立っていないとしたら、そのとき人は多かれ少なかれ疎外感を覚えることになってしまうかも知れません。
 現代のように、役に立つということが報酬を得られる仕事をすることと同義であるような社会では、仕事をしないことはすなわち辛いことということになると思います。
 では、仕事をしていなくとも、また自分が人の役に立っていないと思っていたとしても、辛くもなく、疎外感を覚えることもないという状態はありえないのでしょうか。

 私は、人がもし人の役に立っていないとしても、ある特殊の状態において疎外感が強くなるのではないかと考えています。特殊な状態とは、ごく簡単に言うと、「人が役に立っているかどうかという評価基準がはっきりしている社会状況にある場合」です。現代社会は、正にこの状況にあるでしょう。評価基準こそ問題なのかも知れません。
 かつて人間は長い間、小さい集団で助け合ってまた分かち合って生きていたと思います。そのときの労働は今とは違った質にあったと思います。役に立つ立たないという評価がはっきりしていない時代があったと思います。
 現代においても本来の家族であったり、何かしらの人の集まりには、役に立つ立たないではない他の価値基準があって、疎外感が生じないようになっているものがそこかしこにあると思います。
 私は、人間社会が役に立つ立たないで強く評価される社会に変化していったのは、人のエゴイズムとお金の発明ということが原因だったように思っているのですが、どうでしょうか。エゴイズムは貨幣経済と一体となって歩みます。エゴイズムもお金も個の人間や社会にとって必要なものですが、扱いは難しいようです。

 ここで、精神障害者が置かれている問題を考えます。障害者の数ある問題の中でも、社会からの疎外は大きな問題だと思います。人の役に立ちたいと思う当事者が増えていっていると思う反面、社会状況はまだまだ精神障害者の社会参加が難しい状況のままであるような気がします。孤立感、無力感、疎外感は全体として強いままです。
 精神障碍者が、もし仕事をしていなくとも、また自己充足的すぎて人の役に立っていないように見えても、そして症状が重く支援を受けるだけの生活を送らざるを得なかったとしても、疎外感を感じることなく、その人なりの幸せを感じて生きられるかどうかということも考えなくてはならない一つの課題であると思います。
 精神障害者は、それぞれ違った治療段階にあり、それぞれ違った障害を持ち、それぞれ違った考え方をし、また子供さんからおじいさんおばあさんまで様々な人生のステージに立っています。人の役に立ちたいと心から思って苦労を買って出る人がいれば、いつも幻聴に悩まされている人、いつも孤独と不安にさいなまれている人もいます。
 それらすべての精神障害者たちが、差別を受けずに疎外感を持つことなく社会の一員として生きることが出来るかどうかが問題だと思います。
 勿論この問題の解決については、制度や支援の在り方が重要な要素だとは思いますが、社会を構成する一人ひとりの心の在り方というものこそ本当に重要ではないかと思います。残念ながら、今や世の中の流れを見ていると、私にはどう解決していったらいいのか、立ちすくんでしまうほど困難な問題になっていると思ってしまいます。

 ところで私は、役に立たないものにひとしお愛着を持ってしまう人間です。太宰治が挙げたような「片方割れた下駄」、「歩かない馬」、「真理」、「苦労」、「私」等々様々な役に立たないものに理由もなく愛着を感じます。そんな私が是非太宰に、役に立たないものとしてもう一つ「社会」を加えてほしかったと思っています。でも、太宰はそんな野暮なことは言いませんでした。そこがいいところだと思います。

 人はほんの少し役に立てば、文字通り役に立っていると思います。役に立っていなくても実は役に立っていることもあると思います。それらは、人と人との特別な関係性で決められることであり、一般的な評価基準で決められることではないと思います。
 私は、どんな些細なことでも人の役に立つことは尊いと思っています。それは受けるほうも与えるほうも生きていく力になると思います。と同時に、自分は役に立っていないと思っている人にも価値があるとも思っています。
 どうでしょうか?

 中河原前にあるスーパーに自動支払機が置かれたのは昨年のことでした。その後、それまで仕事をしていたレジ係の人が、一人一人といなくなっていきました。毎日そのスーパーで買い物をする私としては淋しいものがあります。役に立つものにも困ったものがあると思います。