2022年 新春の挨拶 ~ケアするということは、~

                      訪問看護ステーション風  所長 土屋秀則

 昨年は、コロナ禍の最前線でリスクを負って頑張っている看護師や介護職員・保育士の労働報酬が他の一般の労働に比べると低いという問題が盛んに報道で言われました。
 私も強く実感しています。報酬が低いことで担い手が減り、現場は過重労働となります。私たち訪問看護も例外ではありません。ケアの仕事が所々で崩壊してきています。

 私は昨年、ケアを取り巻く困難の中で、“ケアするということはどういうことか”を考えてきました。その観点は、報酬とは大いに関係していますが、しかし、違った角度からのものでした。
 私たちは、心に病気を持った方たちに対して、症状が良くなるようにまた生活が上手くいくようにケアを差し上げています。私は、そのケアというものが、人間として、また人間社会の中でどのような意味があることなのか、もう一度考えました。

 そのなかで、昨年夏頃に気が付いたことがあります。それは、コロナ禍にあっても、“何か職員が変わってきているな。風のチームが良くなっているな”ということでした。
 私たち職員は、一人ひとりは色々な面で不足している部分や苦手な部分を持っています。その上、コロナ禍によって仕事に荷重が掛かってもいました。しかし、全員が一途に、また助け合って仕事をすることが出来ていました。大変な問題があっても、何とかなるかもしれないという可能性を見出し、利用者さんが少しでも上手くいくようにまた幸せに近づくようにケアを続けてきました。
 普段から多くの困難がある仕事ですが、職員は仕事を続けてくれています。そして、ケアの仕事を通して心が変わってきているように見えます。幾分心が純粋になったというか、私自身、ケアの仕事を通して好きな自分に出会って来ているような気がします。
 私たちの仕事の中に何があるでしょうか。

 私たちのケアの仕事は、“心のケア”です。心を尽くして利用者さんの心に向き合い、利用者さんの話を聞き、そして同じ方向を向いて歩もうとする仕事です。もし、私たちが、入浴介助をしたとしても、理学療法的な仕事をしたとしても、また家事援助的な仕事をしたとしても、その根底には心のケアがあるのです。
 “心のケア”とは、心の関係性を通して行うものです。利用者さんと支援者との関係性の中には利害関係はありません。試行錯誤はあっても、何時か心が同じ方向を向くことが出来たなら、それは良い関係性だと思います。そこに心のケアが成り立ちます。
 この関係性は、家族や会社、地域社会など現代の社会の処どころに残っていると思います。しかし、おそらく医療や福祉、教育の領域に最も残っているものではないでしょうか。
 ケアは、人間が人間となって後ずっと続いてきた関係性です。人間の共感性の成長と社会の維持に絶対必要なものだと思います。
 そこでの関係性は、利用者さんが支援者を必要としていることは勿論ですが、利用者さんが私たちを人間として作り上げているという側面もあると思います。私たちはケアを人生体験として成長します。このことが私たちをケアに引き留めている理由かと思います。
 そして、ケアの仕事の進化は、“社会精神性”の深化に関わっているものと思います。
 風の職員は、このコロナ禍でも成長したと思います。チームもいいチームになったと思います。これは、見えないながら、私たちの一つひとつのケアにおける利用者さんとの心の関係性において作り出されたものだと考えています。

 コロナ第6波が到来したようですが、頑張って私たちは、今年もより良いケアを、利用者さんや関係者さんと共に作り上げていきたいと考えています。
 どうぞよろしくお願い致します。


                          訪問看護ステーション風 土屋秀則

 10月11月とコロナの感染状況は大きく改善し、平穏な日々のありがたさを感じているところです。

 私たち“風”は、運営上少なからずの影響をコロナから受けました。大変でした。しかし、これとは別に私は、コロナに関して一つショックを受けたことがあります。それは、コロナに対する一人ひとりの考え方の違いによって、社会の中でも身近でも様々な摩擦が起きたことです。コロナは、“人は皆それぞれ違う”という現実をあぶり出したように見えました。

 まず私は、国によってコロナへの対応が違うことに驚きました。ロックダウンを実施する国があれば、日本のように行わない国もありました。それだけではなく、他の政策もまたスポーツ観戦や宗教行事等生活の仕方の違いについても驚くことばかりでした。
 国内では、緊急事態宣言の発令をめぐって立場によって主張の違いが見られました。医療関係者は総じて発令を急ぎました。そして解除には慎重な姿勢を示しました。ところが、営業自粛を強いられる飲食店の多くは、要請に従いながらも不満を語っていました。中には自粛をしない選択をする事業者もあり、医療関係者たちとは違った考えが多くあることを示していました。私は、医療関係者ではありますが、飲食店事業者の話も十分理解出来ました。
 また、幾分恐怖を感じたこともありました。自粛警察やマスク警察、挙句の果てにはウレタンマスク警察まで出現したことに対してです。日本だけではなく、同じようなことが外国でも起きていました。
 近々使用できるようになる接種証明アプリは、もちろん感染拡大を防ぎ、ワクチン接種率を上げ、経済活動を活発にすることに効果があると思います。しかし、もしかしたら合法的接種警察という面もあるのではないでしょうか。この発明が、実は恐ろしいものなのかもしれない、と私は考えてしまいます。コロナを機に弱い者や少数者が生きられなくなることに繋がっていかなければいい、と思うのです。

 さて、私たちの訪問看護の業務においても、「人はそれぞれ違っている」ということを見せられることが多々ありました。
 コロナに感染することが不安で訪問看護を終了する利用者も多くいました。反対に、私たちがコロナ感染を心配して訪問看護を休業するのでは、と心配する利用者も多くいました。過剰な心配や全くの無頓着、利用者一人ひとりがこれほどまでに違った考えをするとはこれまでは思っていませんでした。
 身近なことではもう一つ、ワクチン接種をしない選択をする利用者が多かったこと、そしてそのことに対する関係者の考えも様々だったことに驚かされました。
 私たち“風”は、コロナワクチン接種を辞退している利用者に対しても、対応が一対一ということもあり、変わらぬ訪問を続けています。しかし、待合室事情があるからでしょうか、クリニックの中には、ワクチン接種をしなければ診療はしないというところもありました。
 私たちは、ワクチン接種を辞退する利用者にアドバイスはしますが、強く接種を説得することはありません。説得しても、接種を受けない人はいるのです。その選択はやはり人としての権利だと思っています。
 私は、ワクチン接種よりまたマスクを使用してもらうより、現在は利用者と“風”の関係性のほうを大切と思っています。ワクチンを接種しなくともマスクを使ってくれなくとも、一対一ではコロナ感染を防ぐことは可能と考えています。精神科訪問看護からかもしれませんが、利用者との関係性・繋がりの大切さは他の何にも代えがたいと思っています。

 コロナは、私に、人の違いを見せつけました。また、違いと違いが接触した際、ときに、震撼するような状況が引き起こされることも見せてくれました。

 私たち訪問看護は、コロナ下でもそれ以前でも、地位、経済力、能力など利用者の違いを超えて支援を行います。それは、どのような感性・考え・信条を持っている人に対してであれ、人間としての繋がりを大切にして行う仕事です。
 私は、このような訪問看護の在り方に、何かしらの「意味」を感じています。


2021年新春のご挨拶                  2021年1月11日 NPO法人コットンハウス、フレンズ理事長  土屋 秀則

コロナ禍の中、正月はあっという間に過ぎました。
昨年中も私たちNPO法人コットンハウス、フレンズは、絞れるだけの知恵を振り絞ってコロナと戦ってきましたが、年末年始より爆発的に勢力を拡げつつあるこの強敵に対し、これまで以上に持てる力を出して戦っていかなければならない日々となっています。

新春の挨拶として私は本年、理事長としてというより訪問看護ステーション風の現場の一職員として、小さいかもしれませんが個人的な感動を皆様にお伝えし、それを挨拶とさせていただきたいと考えました。よろしくお願い致します。

訪問看護ステーション風では、6日間の正月休み、9名(延べ13名)の利用者さんに対し計画的に電話対応を行い、気持ちや生活面での安定を維持して頂けるよう配慮させていただきました。そして1名の方には、訪問を差し上げることで差し当たりの問題を回避することが出来ました。ただ、他の利用者さんには、おおよそ1回は訪問をお休みさせていただきました。
1月4日、正月休みに電話等の対応を差し上げていない利用者さんを訪問した際、「お正月はいかがでしたか」と訊ねてみました。
私は、利用者さんの正月はそれなりに大変ではなかったかと想像していましたが、利用者さんから返ってきた言葉はこうでした。
「自分は、自分の正月でよかったと思っています。自分は自由を与えられています。そして、こうして今日は土屋さんが来てくれます。こういったことは神様がしてくれているんだと思います」と。
神様とは幾分大げさに聞こえますが、私はこの言葉に、心の底から救われたような気持ちになり、また感動も覚えました。
私は、2年近く、この利用者さんが日々心穏やかに過ごせるようにと願いながら訪問を続けてきました。利用者さんがこの正月、心と生活の平穏のみならず、何か他のものまで得ていたように感じました。自然体で澄んだ気持ちで過ごせていたことに私は心から嬉しく思いました。

私たちは、利用者さんたちへ様々な面で支援を差し上げています。気分よく過ごしてもらうこと、生活に支障が起きないようにしてもらうことがその要点です。ところが利用者さんは、時に、自身の境遇を肯定的に捉えるという言葉では収まりきらない、何か心のやわらかい輝きといったものを見せてくれることがあります。1月4日は、そんなふうに感じました。
利用者さんの心に生じたささやかな喜びが、私の大きな喜びになります。

人の心は不思議です。人が幸せと感じるときには、経済的な要因だけではなく心が大きく関係しています。
私たちの利用者さんの86%の方は非課税世帯です。そして72%の方は生活保護世帯です。格差が進み、貧困は再生産されています。また、格差の進行と同時に人と人の間で心の分断も進んでいます。聞くも見るも無惨な社会になりました。
ところが、格差の進行の中あっても、また病気の中にあっても、小さな幸せを感じている人たちがいることに私は感動を覚えます。
格差をものともしない幸せ、この不思議な現象、不条理の裏返しのような現象を、どのように理解すればいいのか、私は考えてしまいます。

私たちNPO法人コットンハウス、フレンズの仕事は、本当にささやかなものです。しかし、本年も、利用者さんが目指す幸せを私たちも願い、心を尽くしてささやかな支援を続けさせていただきたいと思っています。


 少し前のこと、「身体拘束なき精神科へ」と題したインタビュー記事を朝日新聞(2019年8月22日)で読みました。記事は、都立松沢病院院長の斎藤正彦さんが7年間にわたって取り組んできた病院から身体拘束をなくす取り組みについて書かれたものでした。
 私は、記事から二つの強い衝撃を受けました。一つは非常に嬉しい衝撃、もう一つは自らのこととして深く考えさせられるものでした。

 嬉しい衝撃とは、身体拘束率が7年間で20%弱から3%に減少したという記述から受けたものです。「患者さんを身体拘束してまともな精神医療ができるのか」と2012年院長着任時の挨拶で職員さんに問うたことから始まり、「患者さんに選ばれる病院になろう」という2014年のスローガンのもと、更に身体拘束なき病院にしようと取り組み続け、結果この成果を上げることができたということでした。
 このことは、地域であっても精神科医療に携わるものとして嬉しい限りです。
 何十年も前のこと、私は、松沢病院の職員だったことがあります。その時の私には、まだまだ拘束をなくすことを目標に仕事をすることは出来ませんでした。松沢病院在籍中、私が最終的に仕事の目標にしたのは、職員から患者さんへの暴力をなくすということでした。この仕事でさえ恐ろしく大変なものがありました。ですから、合法的にまた全院的に行われていた拘束をなくすという仕事がどれほど困難を伴うものだったか容易に想像できます。
 斎藤先生はインタビューに答えて、「拘束を『合理的な理由があり法律的な手続きが正しければよい』と言う人もいますが、理由があればいいのかということです。入院をトラウマ体験にせず、退院した患者さんが『何かあったら松沢に行きたい』と言ってくれる医療をやろうと呼びかけました」と話していました。
 現在の精神科病院において、もし拘束がなかったり、当たり前の人間として心温かい丁寧な医療がなされているということであれば、私ども訪問看護では、利用者さんに例えば病状の悪化があった際、胸を張ってまた後ろめたさを感じることなく入院を勧めることも出来ると思います。
 残念なことですが、大抵の利用者さんにはかつての入院で受けたトラウマ体験があります。このため、自身の病状が悪化した際も入院したいとは思わないことが往々にしてあるのです。10代でもしトラウマ体験があったとすると、それ以後20代になっても50代になってもやはり入院は絶対したくないと思うのです。決して極端の例ではありませんが、例え自ら死を選らぼうとしている最中にあっても病院には入院したくないと思う人が多いのです。
 日本の精神科医療における入院治療には、多くの病院で患者さんたちに強いトラウマ体験を与え続けてきたという歴史があると思います。それは過去だけの話ではないかも知れません。現在そして未来の入院治療においては、それをゼロにすることが何より必要なことだと思います。
 もちろん利用者さんが入院を選択しないというのは、すべて病院のトラウマ体験が原因だとは言えないと思います。病識を持つことが出来ない状態にあったり、社会の偏見と括ってもいいかもしれませんが、入院が社会からの排除のシステムとして心に映ってしまうことにも原因はあるかもしれません。
 社会の冷たさ、社会を作っている人間個々の冷たさ、社会が持つ排除のシステムが、入院を選択しないということにつながり、それが構造的悪循環を引き起こし病院の拘束を作っているのかも知れないと思うこともあります。
 現在精神病院の拘束は年間1万人以上ということで、10年前の2倍に増えて行っていると記事にありました。これは、社会や人間個々の在り方を映した傾向だと考えます。何とか、システムとしての拘束を、また拘束を行うことにつながる社会や個人の心の中の排除システムをどうにかして変えてほしいと願うばかりです。

 さて、もう一つ衝撃だった記載がありました。強く胸を刺されたのはむしろこちらのほうかも知れません。
斎藤先生が言うには、「最大の気がかりは地域福祉の劣化です。患者さんを退院させようと思っても地域は抵抗勢力になって助けてくれないことが多い。松沢を退院できない高齢患者さんの行き場がないのです」とのことでした。
 病院側から見れば、地域支援は過去に比べると劣化していると見えているのだそうです。地域はいい加減な仕事しかしていないのではないか、と思われていると思います。斎藤先生の記事では、いったい何が劣化しているのか詳しく書かれていませんでした。私は今、病院から見た地域に対する批判を聞くことができればと切に願うところです。
 それでも地域で仕事をしている私は、精神科地域支援の欠点を挙げることはできます。簡単です。それは、症状や障害が重度の人に対する支援体制があまりにも貧弱だということです。
 現在地域では就労支援が盛んです。就労支援は経営的に上手くいくことが見込まれるのか、支援事業所はどんどん設立されていっています。それはそれでいいことだとは思いますが、就労支援に適合しない重度の障害者への支援体制ははなはだ手薄です。
 このひずみは、斎藤先生が言う「高齢患者の行き場がない」というひずみとは違うことだと思います。しかし、何かどこかで根っこが繋がっている問題のように思いますが、如何でしょうか。地域では、就労支援事業所に行けないような重度の障害を持つ人の行き場がないのです。
 松沢病院が病状が重い人であってもまた病状が悪化して入院した人に対しても拘束はしないという方針を打ち出しているように、地域は地域で、重度の障害を持った人たちに対しての支援体制もしっかり構築維持しなければならないのは当然だと思います。

 精神科病床を減らすという国の政策が遅々として進まないのは、実は地域も原因しているところがあると思います。
そして、病院の問題も地域の問題も根っこは繋がっているように思います。


 最近、何人もの当事者から、「夢は人の役に立つようになることです」という言葉をよく聞くようになりました。実際、仕事や当事者活動で活躍している当事者は多くなりました。そうではなくとも、現在多くの当事者の心には、人の役に立ちたいという気持ちが芽生えているのではないでしょうか。

 さて、すっかり年を取った私は、役に立つということについて自分自身のこととしても考えています。仕事ということでは、もうすぐ人の役に立たなくなります。ですが、「仕事ではなくとも人の役に立つことが出来るかもしれない」と思っていますし、反対に、「人の役に立たないほうがいいかな」とも思っています。
 思うに、人が人の役に立ちたいという願いは、人として認められたいという本能的な願いに裏打ちされているもののようです。ですから、人の役に立っていると実感するとき、人は喜びを得ることができるのだと思います。ある当事者グループの副代表さんは言っていました。「この活動をするようになって、生きているって感じられるようになりました」と。
 私たち人は、人の役に立つかそれとも立たないかという考えの枠の中で生きているようです。そうなると、もし人の役に立っていないとしたら、そのとき人は多かれ少なかれ疎外感を覚えることになってしまうかも知れません。
 現代のように、役に立つということが報酬を得られる仕事をすることと同義であるような社会では、仕事をしないことはすなわち辛いことということになると思います。
 では、仕事をしていなくとも、また自分が人の役に立っていないと思っていたとしても、辛くもなく、疎外感を覚えることもないという状態はありえないのでしょうか。

 私は、人がもし人の役に立っていないとしても、ある特殊の状態において疎外感が強くなるのではないかと考えています。特殊な状態とは、ごく簡単に言うと、「人が役に立っているかどうかという評価基準がはっきりしている社会状況にある場合」です。現代社会は、正にこの状況にあるでしょう。評価基準こそ問題なのかも知れません。
 かつて人間は長い間、小さい集団で助け合ってまた分かち合って生きていたと思います。そのときの労働は今とは違った質にあったと思います。役に立つ立たないという評価がはっきりしていない時代があったと思います。
 現代においても本来の家族であったり、何かしらの人の集まりには、役に立つ立たないではない他の価値基準があって、疎外感が生じないようになっているものがそこかしこにあると思います。
 私は、人間社会が役に立つ立たないで強く評価される社会に変化していったのは、人のエゴイズムとお金の発明ということが原因だったように思っているのですが、どうでしょうか。エゴイズムは貨幣経済と一体となって歩みます。エゴイズムもお金も個の人間や社会にとって必要なものですが、扱いは難しいようです。

 ここで、精神障害者が置かれている問題を考えます。障害者の数ある問題の中でも、社会からの疎外は大きな問題だと思います。人の役に立ちたいと思う当事者が増えていっていると思う反面、社会状況はまだまだ精神障害者の社会参加が難しい状況のままであるような気がします。孤立感、無力感、疎外感は全体として強いままです。
 精神障碍者が、もし仕事をしていなくとも、また自己充足的すぎて人の役に立っていないように見えても、そして症状が重く支援を受けるだけの生活を送らざるを得なかったとしても、疎外感を感じることなく、その人なりの幸せを感じて生きられるかどうかということも考えなくてはならない一つの課題であると思います。
 精神障害者は、それぞれ違った治療段階にあり、それぞれ違った障害を持ち、それぞれ違った考え方をし、また子供さんからおじいさんおばあさんまで様々な人生のステージに立っています。人の役に立ちたいと心から思って苦労を買って出る人がいれば、いつも幻聴に悩まされている人、いつも孤独と不安にさいなまれている人もいます。
 それらすべての精神障害者たちが、差別を受けずに疎外感を持つことなく社会の一員として生きることが出来るかどうかが問題だと思います。
 勿論この問題の解決については、制度や支援の在り方が重要な要素だとは思いますが、社会を構成する一人ひとりの心の在り方というものこそ本当に重要ではないかと思います。残念ながら、今や世の中の流れを見ていると、私にはどう解決していったらいいのか、立ちすくんでしまうほど困難な問題になっていると思ってしまいます。

 ところで私は、役に立たないものにひとしお愛着を持ってしまう人間です。太宰治が挙げたような「片方割れた下駄」、「歩かない馬」、「真理」、「苦労」、「私」等々様々な役に立たないものに理由もなく愛着を感じます。そんな私が是非太宰に、役に立たないものとしてもう一つ「社会」を加えてほしかったと思っています。でも、太宰はそんな野暮なことは言いませんでした。そこがいいところだと思います。

 人はほんの少し役に立てば、文字通り役に立っていると思います。役に立っていなくても実は役に立っていることもあると思います。それらは、人と人との特別な関係性で決められることであり、一般的な評価基準で決められることではないと思います。
 私は、どんな些細なことでも人の役に立つことは尊いと思っています。それは受けるほうも与えるほうも生きていく力になると思います。と同時に、自分は役に立っていないと思っている人にも価値があるとも思っています。
 どうでしょうか?

 中河原前にあるスーパーに自動支払機が置かれたのは昨年のことでした。その後、それまで仕事をしていたレジ係の人が、一人一人といなくなっていきました。毎日そのスーパーで買い物をする私としては淋しいものがあります。役に立つものにも困ったものがあると思います。